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文集「笛吹きたち」第4号 原稿再録



笛吹きたち 第4号の再録です。。打ち込みは坂井直子さんのご協力を得ました。この号はガリ版刷りのため判読しづらい字が沢山ありました。しかし、丹念な考証によりそれをやり遂げてくださいましたが、それでも判別不能の字は○や空欄にしている箇所があります。どうぞお読み下さい。

笛ふきたち 4

始めに                      石原利矩
白い季節                     大田原 茂
日々雑感                     高野睦美
広告のはなし                    南谷周三郎
                         竹部直子
無題                       鈴木淳彦
ついていない日                  宮坂恵理子
庭先にて                     坂上洋太
ヴィブラートについて               石井孝治
                         成瀬 忠
ある芸術家の生活の挿話
       ――ベルリオーズの場合――     細川泰彦
向かいの人                    曽我真論紀
私の受けた小学校の音楽教育            藤沢冨美子
読んで下さい                   喜多村五彦
私が今一番うれしいこと              石井貴美枝
いやなこと                    根岸 恵
鈍行列車                     田宮治雄
「ある音楽との出会い」              亀井周二
「麗子微笑」                   田代千代子
だれも聴いたことのない音楽            吉田明美
空の本箱                     根岸咲子
グールドとルーカス=グラーフについて       上野昌彦
私の夢                      下山孝子
軽く読みながしてください             池辺研一
萩原碌山のこと                  田中洋子
楽しかったフルート合宿              大塚章子
「ハイ、次!」ソナタ形式による          わたなべ てつお
遊びのない子供達                 細野秀子
・・・21の季節・・・              西広慶二(埋木舎)
流楽の記                     石原利矩
贋作 いじわるばあさん              松沢久子
                         亀沢広嗣
                         吉川しな子
                         日景 都
占い特集                     徳植俊之
――――― 徳植氏、今度はおおいに占う。
“私にとってフルートがなくてはならないわけ”    藤村悦子
ばかばかしいお話                 長沼明久
                         小森谷典代
元旦の計                     山田和子
ポケットいっぱいのしあわせ            島田幸子
フルート非上達法                 小島邦雄
                         越野昌芳
                         小野澤君予
教室にて                     横山恵子

編集後記


 

はじめに                    石原利矩  

ここ、外苑ビル305号室の住人になってから5年半がたちました。
多くのお弟子さん達と知り合いになり、又多くの人が去って行きました。転勤、受験、結婚、仕事の多忙、その他指の腱をいためてしまったり、それぞれの理由からフルートを続けられなくなり、お別れするのです。そしてそう言う時にいつも考えるのです。
 はたして自分がどれだけ音楽の事で力になれたかと言う事を。
 クヴァンツ風に言ってみれば、音楽のない人生なんて、丁度、調味料を使わない料理を食べている様なもので、僕がこうしてレッスンを続けているのも、フルートを通して、皆様が音楽を楽しみ、音楽に心の安らぎを覚え、ゆとりのある人生を送っていただきたい、その為に少しでもお役に立てればと念願しているのです。
 そして音楽を通して心の通い合えるサークルを作りたいと思っています。そんな訳で、今レッスンに見えていない方も、何人かこの「笛吹きたち」に投稿して下さいました。
 それから皆様がちょっぴり顔をしかめるお知らせを。
 「笛吹きたち」第5号の原稿募集をいたします。〆切日1976年1月31日。
 幹事は今年度、〆切日に間に合わなかった人達より選出されます。
最後になってしまいましたが、これで4冊目の「笛吹きたち」を本棚にならべる事が出来ました。
 幹事の皆様御苦労様でした。

 

     白い季節                     大田原 茂

遠い遠い北の果てから
風にのり数羽の渡り鳥がやって来た。
目を遙か南の空にむけながら

彼等の祖先も、又
この永遠の儀式から
悲しい運命を背負いながら
飛んで行かなければならない
せいいっぱいに・・・・・

白い花粉がこの地にも舞い降り
彼等の飛線を追ってゆく
グズグズしていたら
暖かい温もりする楽園が
冬将軍に占領されてしまう
急げ 白い渡り鳥

 

日々雑感                     高野睦美

 千葉の冬は、風が冷たい。ひとりぼっちの下宿生活であるだけに、その冷たさはなおさら身にしみる。しかし、やがていじ悪な冬も姿を消し、菜の花が咲きはじめ、私の部屋のクロッカスもきれいな花びらを見せ、たんぽぽにあふれた春がやってくるだろう。
 あの、喜びにあふれた合格発表の春から、もう一年が過ぎてしまった。昨年の春が、なんだかずっと昔のことのような気もするし、つい最近のような気もする。とにかく、私にとって、すべてが変わった、といっても過言ではない一年だった。人が生まれる時に第一の扉を開くとしたら、私にとっては第二の扉を開いたことになる。
 私の故郷は栃木県のはずれの小さな町だ。四方を、山、というより小高い丘に囲まれ、町の中心を川が流れ、静かで緑あふれている。そんな環境の中で、両親にあまえて育った私が、突然ひとりで千葉に放り出された・・・・・。しかし、人間なんてひとりになればなったで、けっこうやっていけるものだ。この私がなんとかやってこられたのだから・・・・・。
 ただ、いつまでたってもいやなものは、あの強い千葉の風。それと、私の下宿付近に山がないこと。私の山は奥多摩の山のようにつんとそびえた高い山ではなく、何となくあたたかいと感じられる小高い丘だ。休みで家に帰る時、列車の窓からあの小高い丘が見えると、家に帰ってきたんだ、と喜びとやすらぎを感じる。
 大学というところは、遊ぶ気ならいくらでも遊べるし、勉強する気があればいくらでも勉強できる所みたいだ。高校三年の時は、目の前に大きな壁があって何も見えなかった。その壁がなくなった今は、荒野が広がっているばかりでやっぱり何も見えない。だけど、何かを見つけるのは、この私自身。がんばらなくちゃ。

 

 

     広告のはなし                    南谷周三郎

「笛吹きたち」には、残念ながら広告が載っていません。こんな立派な本が出来るのですから、皆さんで広告をとってみたらどうでしょう。(半分冗談、半分本気)広告がのると雑誌も一人前でしょう。そこで、こった広告の見本をのせます。見本とはいえ、これは本当の話です。

 

<シンフォニア新刊 ご案内>

バロック音楽の研究と演奏の分野で
 我が国のみならず世界的に権威のある
「バロック音楽の演奏習慣―バロック音楽の楽典―」
          ゴットホルト・フロッチャー著
          山田 貢訳(芸大講師)
            定価1600円 送料160円
「バロック音楽の装飾法
  ―譜例による 楽・声楽の演奏習慣―」
          ハンス・ペーター・シゥミッツ著
          山田 貢訳(芸大講師)
            定価2800円 送料280円

  

 まあ、ざっと、こんなものです。こんな勝手なことをしますと読者の皆様に失礼になりますので、その罪ほろぼしに、版権所有者として、皆様のためになると思われる部分を自由に引用してみましょう。
     バロック音楽の本質的形態について
☆古い音楽に――作品に忠実な演奏者として、或いは、注意深い鑑賞者として――熱意を持って取り組もうとする者は、一般に「古い音楽」の典型などはないということを、ましてや、ノートルダム楽派からバロックに至るあらゆる作品を網羅する総合的な概念などないのだということを、先ず十分考慮して肝に銘じておかなければならない。
☆昔の作曲家たちは、よく自分のソナタや組曲やモテットやクオドリベ・・・・を「識者たち」や「愛好家たち」からなる社交サークルに献じたが、歌ったり演奏したこれらの人々は、現代におけるよりもずっと緊密に互いに結びついていた。だが、「古典派」の時代このかた、音楽は公開の場に、つまり寄せ集められた異質な人々からなる公衆が受け身の形で参加するコンサートに移されるようになった。そのような公衆を前にすると古い音楽の特性は消しとんでしまう。・・・・かっては、楽しい「音楽の宴」で陽気な仲間たちが気のむくままに歌った民謡を、合唱団が一生懸命稽古をして、楽譜を手に舞台の上で演奏しても、どこかしっくりこないのである。

     ダイナミック
☆昔の音楽の場合、強弱記号はそのまま作曲の構造と音楽の情緒を説明したものといえる。

 ためになることばかりをのせるということは、即ち、この本全部をのせるのと同じことです。紙面の都合上それは不可能です。是非、皆さんお買い上げの上御高覧下さい。私は音楽の専門家ではありませんし、フルートもご存じの通り、下手くそです。そういう人のためにも、ためになる良いことが書いてあります。「昔の舞曲」の章などは、バッロク音楽を演奏するには、アトラクティブな文章だと思います。自画自賛御海容下さい。 おわり。

                              竹部直子

 今日は大寒の入り。去年会社を退職してからもう半年。又新しい年が来てしまいました。どういう訳か。
 暮れの三十一日から又同じ夜明けを迎えただけというのに今年こそ飛躍し、今年こそ落ちつくべき処に落ちつこう(同じ心境の人だけに通じること)と毎年同じ考えを繰返しています。同じことを考えているのですから結局全々進歩がなかったということになるのでしょうか。
 でも今年は例年と少し違います。好きな事がこうじて始めた水泳指導、昨秋、日水連の指導員の資格をとりました。今年は、ブッツケ本番スイミングクラブへ飛びこんで、人手の足りない指導を受け持つことになりました。指導といってもまだその方法を教わりながら手伝っています。
 今は、幼稚部を担当、小さいのは二才から大きくて小学校三年位まで。幼稚園児が一番多いので、水泳保母さんといったところです。一クラス一時間半の練習ですが、その間プールに入りながら説明したり、注意したり、おこったり、大声でしゃべりまっくています。小さな子達ばかりなので私が必死に話していることなんか平気で、そっぽを向いています。そんな時は、口で言わず水をひっかけてやります。いたずらっ子にはビート板で頭をおさえつけます。これは、私がいつも先生に説明されても一向に上達しないので叱られている腹いせかもしれません。冗談々々。小さい子は、言葉よりある程度は態度で示さないと、ききめがありません。
 練習の時、いやになってくると私に何か言おうとして口をとんがらしながらブツブツ話してくるのですが、聞く私の方が何を言っているのかさっぱり理解できず、「うん、うん」と合づちを打つだけ、そのうち子供の方がかんしゃくを起こしてしまいます。そんな子やら、水に顔をつけるのがこわいらしく一回顔をつける毎にべそをかき、私に「水に顔をつけなさい」と言われると仕方なく顔をつけ、その顔のなんとあわれなこと。練習をしたくない子は入るなり「おしっこ」と言って一人だけ水から上がり、戻って来て又少しで「おしっこ」と言うのです。私は「嘘でしょう。今行って来たばかりじゃない。ダメ。」と言って行かせません。私は可哀想なことをしているのでしょうか。泣き泣きプールに入る子を無理にスイミングクラブへ入れる親が悪いのでしょうか。いろいろ批判はあると思います。まだまだいろいろの子がいますが、最後にこの子達に五分間の自由時間をあげます。今まで泣いていた子も、べそかきも、皆この時間だけはけろりとして元気に楽しく水と遊んでいます。私の足にしがみつく子、水をひっかけてくる子、自分の泳ぎを「見てて、見てて」とねだる子や、可愛いい子ばかりです。一時間ずつ二クラスが終わると私もさすがにぐったりします。お腹はペコペコ、お腹の皮と背中の皮がくっつきそうです。
 普段はあまり小さい子の面倒を見ることを好まない私ですが、こうやって水と一緒に子供達に囲まれていますと情が移って可愛いくて毎日プールに行くのが楽しみです。これからは中学生位までの面倒も見るようになります。益々水泳の技術を磨いて、水泳人口の底辺のひろがりに微力をつくしたいと思っています。

 

     無題                       鈴木淳彦

 僕はついこの間、バッハのフルートソナタの二巻を買いました。フルートの楽譜はわりあい持っている方なのですが、どういうわけか、それまでこの楽譜は持っていなかったのです。普通、フルートを始めて、何年かたつと、バッハのソナタの楽譜ぐらいは、持っているでしょうが、僕の場合、特に欲しいとも思わなかったのです。何故今まで手に入れなかったのだろうと考えても、特別な理由はないのです。ただ、僕が現代あるいは近代の曲の方が古典よりも好きなので、すぐ新しいものの方に目がいってしまい、そのへんに理由があるのかもしれません。
 バッハと言えばすぐにヘンデルやテレマンといった名前が上げられますが、僕にはどうもこれらの人の音楽がわからないのです。未熟者のたわごとかもしれませんが、どの演奏を聞いても、また下手ながら自分でやってみても、その音楽の中に入りこめずにその周囲をただぐるぐるまわっているだけのような気がするのです。ところが新しいものの場合にはそうではなく、最初なんだかわからないような曲でもすぐにその音楽の内部へ入りこんでいけるような気がするのです。
 音楽というものが再現芸術であるという性質上、その時代時代において受け入れられる、受け入れられないということは多々あります。従って、現代のようにめまぐるしく変化する時代に生きる者が、古典音楽をある意味において受け入れることができないということは当然のことのように思う。

 

     ついていない日                  宮坂恵理子

 予定からいきますと、この紙の上には「音楽とは何か」「バッハのフルート曲について」
「三木内閣に思う」のどれかが、二、三十枚の論文となって書かれているはずでした。でもやめました。なぜかといいますと、今、非常に頭にきているのです。論文どころではないのです。だから、だから・・・・とっても残念なのですが書けません。しかたがないので先週の土曜日、日曜日の事を書くことにします。この一週間、この日の事を思い出してはひとりでおこっていました。たぶん友達の二人や三人はひどいめにあっているはずです。俗に言う「やつあたり」です。
 では、内容にはいります。土曜日は食べ物に縁がありませんでした。朝食、いつもながらおねぼうをして目がさめてから八分後に登校。一年からの最高記録です。家を出る時、母が「牛乳だけでも飲んでいきなさい。」って言ったけれど牛乳は大キライなので、「いらない」って言って家を出てきちゃいました。さて、学校に行ってからおなかがすいて、おなかがすいて、四時間目の学時の時間はグーグー言うんです。やっと終わって清掃も終わり「さようなら」をして帰ろうとカバンを持った時「エリちゃん、今日委員会あるから」って友達が言うんです。ガーン。「やっとありつけるのに」って思っていたのにその夢はやぶれたのでした。この時、私が不まじめに委員会なんてさぼっちゃえばよかったのに良心が許さなかったのだ。しかたなく出席して何を話し合っているのかも耳にはいらず、絶えず頭では食べ物を想像していたのでした。やっと終わって四時。それから急いで帰って四時半。くつをぬごうとした時・・・・。思い出してしまったのです。そうでした。土曜日の五時からはピアノがあるのでした。またもや私の夢は・・・・ヤブレタリ。ピアノから帰ってくると七時でした。ピアノの帰りおなかはすいているし寒いしで、ヘトヘトでした。今度こそ夕食にありつけるはずでした。しかし、それも それも・・・・。ちょっとしたことから母上とけんかをして、よせばいいのに「夕食なんていらない。」って言っちゃたんです。後でどんなに後悔したことか。でもいったん言った以上、私のメンツにもかかわるのでじっとたえたのでした。でも、一日中なんにも食べないっていうのはなんてつらいことでしょう。おなかがすいている時はねるのが一番だと思い、八時半ごろねちゃいました。(ホントは夜中の二時半、台所へそーっと行ってひとりで食べてきた。おなかいっぱい。)
 次の日、日曜日。フルートのレッスンのある日です。朝六時の急行に乗って出かけました。新宿から渋谷までの山手線、渋谷からの地下鉄の連絡がどうもうまくいかないんです。帰りもそうでした。きのうからどうも私はついていないんです。いつも、ホームへ出ると電車が出た後なんです。そして次の電車との間がすごーくあるんです。ほんとに頭にきました。いいかげん頭にきたので帰りの電車では、足をふまれた時、踏み返してやりました。なんたってついてない日でした。
 この二日間の事は、今でも思い出すと頭にきます。ホントニ!

 

     庭先にて                     坂上洋太

 「東京と言っても広うござんす」
 「東京は練馬にござんす」
 「練馬と言っても広うござんす」
 「練馬は埼玉県と背中合わせの高松にござんす」
 いささか仁義めいているが、現在の場所に移って来てから三年程過つが、この近辺は住宅地としては未開の地域で野菜畑や苗木の仕立畑が点在するところである。(昔は練馬大根の産地かも?)
 この一角に我が家がある。我が家は二DKでこの一室から見る前庭は都内であることを一瞬忘れさせてくれる。この前庭は例によって苗木畑となっているため小鳥達の恰好の場所となっている。知っている名前だけでも「スズメ」「モズ」「オナガ鳥」「シジュウカラ」と言った具合で朝は挨拶の場、昼は遊び場、夜は塒(ねぐら)となる。
 秋にともなると紅く熟した柿の実をめぐるドラマが展開される。我先にとモズがけたたましい鳴声で独占すれば、これを追いはらう様にオナガ鳥が大群を引いて割り込んでくる。オナガ鳥が満腹になると最後に小さく弱い小鳥達が残り物を食べに来る。
 又、雪の日などは餌をさがしに小鳥のオン・パレードとなり、日が暮れるとここが塒となって親子兄弟が集まってジュンジュンと今日の出来事を話し合いながら眠りについているかの様である。
 こんな小鳥達の情景が惰性に流される日常の生活に新鮮な息吹を与えてくれる。

 

     ヴィブラートについて               石井孝治

 最近、音を出せば必ずヴィブラートがかかるのが当然だと考えている人が多いようだ。ぼくも、つい最近まではヴィブラートをすごくかけていた。しかし、練習しているうちに耳ざわりに思えてきた。そこで少し自分で考えたり、モイーズの言っていることなどからヴィブラートについて考えたい。
 フルートでヴィブラートをかけるようになったのはつい最近である。タファネルが活躍しているころは、ヴィブラートをかける人はきらわれることが多かった。しかし、現在では、ヴィブラートをかけるのが当然となってきている。ニコレなどが現在のヴィブラートを説明する良い例である。私の聞いた限りでは、ニコレは始終ヴィブラートをかけている。私にはちょっと耳ざわりである。私が聞いて一番良いヴィブラートだと思うのは、マルセル=モイーズのヴィブラートである。モイーズは、ヴィブラートを感情の高ぶった所では激しく、穏やかな所では軽くかけている。これが本当のヴィブラートだと思う。
 今のフルーティストは、音=ヴィブラートと考えている感じがする。だから聞いている方には音がゆれているとだけしか聞こえない。私の思うヴィブラートとは、音楽をすばらしいものにする一つの手段だと思う。だから、始終同じ割合でヴィブラートがかかっていたら、ヴィブラートをかける意味がなくなってしまうのではないだろうか。

 

                               成瀬 忠

 一年あまりレッスンを休んでおりましたが、また今月からお世話になることになりました。
 先生のところへそのことをお願いにうかがうと、例の「笛吹きたち」の原稿締切日が壁に貼ってありました。それを眺めていたら先生に「お願いしますね!」と実にタイミングよく言われてしまったので、ついうっかり「ハイ」と返事をしてしまったのです。
 帰りの電車の中で「三月から習いはじめればよかったかな」と後悔した次第です。
 何を書いてもよいとなると、何を書いたらよいかを決めるのに本当に迷ってしまうのです。現にこれを書き始めている時点でもあれこれ考えて困っているのです。
 実を言うとこれからその「笛吹きたち」の第一回編集会議があるというので、それまでに書き上げて持って行かねばなりません。
 昨日レッスン再開の一回目でした。リズム感の悪い小生は、先生のストレスをまた増大させることになるようです。他の楽器の経験がなく、しかも自己流でフルートをはじめることは不適当のように思われます。何故かというとリズムや曲のフレーズによって自分の呼吸をコントロールするのではなく、自分の呼吸や指の動きによってリズムを作ってしまう傾向があるようです。それが習性となってリズム音ちができあがってしまうように思われます。これからは(今まで何回も言われたことですが)練習のときは、面倒がらずにメトロノームを使って正しいリズム感をつかみたいと思います。
 そろそろ時間になってしまったようです。

 

     ある芸術家の生活の挿話
       ――ベルリオーズの場合――            細川泰彦

 

時  十九世紀
場所 モンマルトルの丘

男  ねえ、ヘンリエッタ。ボクたち、愛しあってるんだろ。だったら結婚しようよ。
女  バカねえ。ベルリー君。あんた、あたいと結婚してどうやって生活して行くのよ。じょうだんは顔だけにしな!
男  ・・・・・・・・・
女  なんとか言ったらどうなのよ。あんた男でしょ。
男  ・・・・・・・・・ ぼくかえる。

  

 こうしてヘンリエッタにふられたベルリオーズは苦しみました。まだ彼はそれほどまでに純粋だったのです。毎日毎日が、ものすごく長く感じられて、もうどんなことをしてもだめで、時はなかなか恋愛の苦痛をやわらげてくれなかったのです。ベルリオーズは彼の回想録の中で「この時の私の苦痛は、そう易々と描けるものではない。かきむしられる様な胸の痛み、恐ろしい孤独、空虚なこの世、氷の様につめたい血が血管を流れるかと思うような百千の苦悶、生きるのもいとわしく、さりとて死ぬこともできない。」と言っている。
 本当にリアルですね。こんなリアルな心理描写は小生には書けませぬ。ちょっとキザな感じもする。しかし、彼、ベルリオーズはこの恋の痛手をムダにはしなかった。彼はこの経験をもとにすばらしい音楽を作曲したのです。それが十九世紀の初めにおいて標題音楽の重要な一方向を確立した、高い歴史的意義のある作品“幻想交響曲”なのです。
 恋の苦しみとか、その中にひらめく恋人へのあこがれ、自然への逃避、神への救い、これらの心理的な変遷が織りなされて、この曲が構成されている。1832年に出版された楽譜には、こんな事が書かれています。「異常に敏感な、そして豊かな空想力に恵まれた若い音楽家が、希望のない恋愛のために深い絶望におちいり阿片を飲む。毒薬は彼を殺すには弱すぎたが、しかし怪奇な幻想を伴った深い眠りに彼を投げこんだ。彼の感覚や情緒や記憶が冒された彼の心を通過していくとき、それが音楽的な像や心像に変えられた。恋人である彼女は一つの旋律、くりかえし ってくる主題―それはたえず彼につきまとっている―となる。
 ここで帰ってくる旋律(固定観念)とはすべての楽章に登場する“彼女”の姿なのです。

譜例<いずれ挿入します(石原)> 

 つまり固定観念が楽曲構成の基礎になっていて、それの展開によって全曲が作られています。フランスの交響曲やバイオリンソナタR.コルサコフのシェラザードなんかもこれにあたるが、その原形が“幻想”に見られます。
 小生が感ずるところ、主題の表現方式が非常に問題であるというか、とてもおもしろいのです。つまり恋人のメロディを演奏する楽器によって恋人の性格、状態を表しているのです。バイオリン・フルート等ででてくる“彼女”は清純な乙女のイメージ。クラリネットででてくるときヒワイ(。。。)なアバズレ(。。。。)女のイメージ。(これはあくまでも小生の主観的見解に立っての意見であります。なぜならば、このクラリネットという楽器が大きらいで、目の前で吹かれた時には、もう目の前が真黒、失神してしまいたい位きらいなのです。)こんなことを想像するのは小生だけでしょうか。
 それでは演奏を聞いてみることにしましょう。

     第一楽章 夢と情熱
 プログラム――最初彼は、魂のつかれを、漠然とした渇きを、うす暗い憂うつを、そしてあてのない喜びをおぼえる。それからは、彼が恋人に出会う前に経験したものである。それから彼女によって霊感された爆発的な恋愛、精神錯乱した苦悩、やさしさへの復帰、宗教的ななぐさめがおこる。
 初めてのものうげな感じから、だんだんと燃えはじめた炎がだんだんと大きくなり、突然何かに引火するようにオーケストラがぱっとはじける様は、何度きいてもいいものです。ここでの恋人の姿は、フルートとバイオリンのユニゾンで示されています。まだ恋人の姿は、何物にも汚されていない清純な乙女の姿をあらわしている様です。なぜならばフルートの音色がそうさせているから。(これも小生の主観的見解!)

     第二楽章 舞踏会
 プログラム――騒がしく華やかな祭りの舞踏会で、彼は再び愛人の姿を見い出す。
 この楽章はハープの響きに導かれて流れるワルツがとてもすばらしいんです。おもわずとなりで聴いている恋人と、おどりたくなるでしょう。あっ、いけない。この曲は失恋した時にきく曲だったんだ。そしてここでの恋人のメロディは主人公からは遠くはなれていても。

     第三楽章 野の風景
 プログラム――田園でのある夏の夕方、二人の羊飼いが笛を吹きながら呼びかわしているのを聴く。こうした情景に聞こえる牧歌風のデュエットや、風にさらさら揺れている樹々、また最近知ったある理由から感じられるあかるい希望などが、すべていっしょになって彼の心を珍しく平静にさせ、その幻想を美しく色どっている。だが再び愛人の面影が心に浮かぶと、彼の心はわななき、もし彼女が不実だったらどうしようと、暗い予感におびえる。やがて羊飼いのひとりだけが再び笛を吹きはじめる。日没、遠方の雷鳴、孤独、そして静寂が・・・・。
 もちろんこの楽章にも恋人の旋律があらわれているのです。それも低音部で、不気味に。これから何か不吉な事が起りそうな“嵐前”とでも言いましょうか、そんな感じのする楽章が終わると。(特に遠雷のティンパニーが効果的)

     第四楽章 断頭台への道
 プログラム――彼は夢の中で愛人を殺してしまう。その報いとして死刑を言い渡され、刑場へと曳かれて行く。行進は陰気な感じから狂暴な感じへと変わって行く。おしまいに、愛人の最後の思いの様に恋人のメロディがあらわれるが、それも首斬り斧の一撃に断ち切られてしまう。
 まさにグロテスクなこの曲の中のきわめつけです。この楽章には、ベルリオーズの得意とする管弦楽法がふんだんに使われています。小生は、この楽章が存在するゆえに、この交響曲を“気狂いシンフォニー”と呼んでいますが、それはまさに最後のところ、かん高いトランペットの響き、ドラムのリズム、恋人のメロディ(あまりにも悲しげに、みれんがましくもある。)そして首が切られるオト。これこそまさにベルリオーズではないだろうか。

     第5楽章 ワルプルギスの夜の夢
 プログラム――彼は地獄に落ち魔女の祝宴に列席している。また恋人のメロディがきこえるが、もう今までの清純さは失われて、いやしげな踊りの旋律に変わって、浅薄で、ヒワイでグロテスクでさえある。
 この彼女のメロディがここではかん高く、品のない変ホ長調のクラリネットで吹かれる。まことに顔を(いや耳を)そむけたくなる様なブス(。。)の(いや、変にゆがんだ)メロディになっている。変にスタッカートのついた、とてもゆがんだメロディなのだ。ベルリオーズは天才である。なぜならば女性心理の一端を、正確無比に楽符にすることができたのであるから。

 これがベルリオーズの幻想交響曲作曲に感する“秘中の秘”であります。小生は交響曲の中でもベートーベンの第三・第九交響曲、ドヴォルザークの“新世界”、マーラーの復活とともに五指の中に入る名曲だと思っている。
 ボクが一番好きな幻想のレコードを上げます
 ・ミュンシュ指揮 パリ管弦楽団(AA-8255)
  これは多分、もう廃盤になっているでしょう。
 他には
 ・クリュイタンス/フィルハーモニア(TO-A5009)
 ・カラヤン/ベルリンPo(Po-MG2008)
 ・ミュンシュ/ボストンSo(To-A112)
 ミュンシュの白熱した指揮と未知の力をもったブラス群の強烈なパリ管のもとに、ベルリオーズの幻想はここによみがえるのです。もし聞きたい方は当方までどうぞ。
                              女性の方大カンゲイ。 

 

     向かいの人                    曽我真論紀

 秋田から帰ってくる急行の中で、向かいに座った人は、みんなおもしろい人たちばかりだった。去年も今年も、同じ1月3日に、同じ急行で帰ってきたのだけれど、その時の話。
 去年は、深川の造船所に勤めているという角刈りのおにいちゃんだった。
「おれたちの仲間はなあ、金があるうちは働かねえんだよ。いくら上のもんが、仕事に出ろって言っても、あるうちは絶対仕事なんかしねえ。かけごと、酒に女・・・・・みんなよお、こんくらいの長さのドス(?)をふところに入れてよお・・・・」
と、ざっとこんな調子で、こわそうな人だとおもうでしょ。でも、顏みれば、子供が大好きそうな人で、いっしょうけんめい話を聞かせてくれた。結局、上野まで何の話かというと、競輪、競馬、競艇の話ばかり。いつのどのレースは惜しかったの、帰りはスッカラカンでやっとおでんにありついた時はどうだったのっていって―。ずっと、聞き役。よく話のわかるネエチャンだと思ったのだろうか。そのうち気が変わったら、お金をためて嫁さんもらうんだと言ってた。嫁さんは見つかったろうか。
 そして、今年の一月三日は、私はずっとケナサレ役で
 「何だ、そんな本読んでないのか・・・・。」
 「えっ、あの映画も、見てない・・・・。」
 「えっ、あの歌、知らないのっ・・・・。」
 「えっ、何、これも知らない・・・・。」
えっ、えっ
 「女は強えよ」
が、この、えっ、えっの一番最後の言で、でも、こんなにたくさんのことを知っている人がいるのかとびっくりしてしまった。その人が、急行に乗り込んできた時、私は眠っていたのです。向かいの二人が何か話すのが、聞こえたけれど、無視して目をつぶっていた。目をあけた時は、やっぱり無視して、お弁当を食べた。そしたらその人が私を見て言ったこと。
 「女かあ、ずっと男だと思っていた。やっぱり女か。三十過ぎたオールド・ミスみたいだなあって、ちょっと思ったよ―、イヤァ、おれは、ウソのつけない男でねぇ。」 絶句。
 いっしょうけんめい、反撃に出ようと思って、あれこれ考えをめぐらしたのだけど、いつもやられっぱなし。今度、会った時にはきっと何か言えるように勉強するのだ。でも、たいくつしなかった。何だ、かんだとけなされながらも、いい人だったなあと思う。ところが、最後が悪い。別れぎわ、
 「同じ、秋田県同志、がんばろうぜっ。じゃあなぁっ。」
と、車内中に響くような大声でわめいたのです。大宮で―。もう、秋田人も少ないというのに―。今度、いつか会ったら、もう―。

 

 

     私の受けた小学校の音楽教育           藤沢冨美子  

 戦後は小学校一年からうた・鑑賞・創作・器楽と、一応何でも教えてくれるが、私達が小学校で受けた音楽教育というのは、音楽の中のほんの一部である。うたうことだけだった。だから科目も音楽といわず唱歌といった。
 文部省の尋常小学唱歌という教科書にあるうたが主なものだった。戦前は教科書は皆国定教科書で、日本中どこへ行っても同じ教科書を使っていた。うたもみんな同じうたを歌ったわけである。その内容といえば、ここに全部あげるわけにはいかないが、廣瀬中佐、橘中佐、日本海海戦、水師営の会見、靖国神社、出兵兵士など、戦争に関係のあるもの。又、今も教科書にとり入れられたり、うたわれているものに、春がきた、朧月夜、スキーのうた、我は海の子、海、春の小川、故郷、村の鍛冶屋、牧場の朝、背くらべ、冬の夜、茶つみ、村まつり、かかし、虫の声、鯉のぼりなどがある。中には歌詞が一部変えられているが、これらの歌を聞くと非常になつかしい。
 唱歌の時間には先生がオルガンを弾いてうたうだけである。それも特別な教育を受けた先生が教えるわけではなかったので、オルガンの伴奏も伴奏の役目をしなかったのではないかと思う。中には調子外れの先生もいて変な歌を聞かされたことや、たまには上手にうたってきかせてくれたことも覚えている。
 四大節(一月一日、紀元節、天長節、明治節)には全員登校して式をし、君が代とその日のうたをうたった。君が代は何かの行事の時には必ずうたわされた。
 時には、授業中に軍歌をうたったこともあった。その頃教わったうたは全体覚えていて、今でも時時口ずさむこともある。その頃は全部斉唱で、合唱などしたことはない。
 戦後になって私の出た学校にもピアノが備えつけられたが、その頃、ピアノがある小学校は少なかった。だから私は小学校を卒業するまでピアノの音を聞いたことがないのである。今の人達には、考えられないことであろう。
 小学校でこんな音楽教育を受けた私も、その後、ある先生の影響で音楽が好きになり、少し勉強もしたが、今は全々。その頃覚えたことも月日がたつにつれて次第に忘れようとしている。 
     春の小川
 
春の小川はさらさら流る
 
  岸のすみれやれんげの花に

   匂いめでたく色うつくしく

    さけよさけよとささやくごとく

 

 

     読んで下さい                   喜多村五彦

 いよいよ大学を卒業してしまって、とは云ってもこれを書いている今現在、まだ卒業認定をもらっていないんで、卒業決定ってわけじゃないけどこの本出る頃には、どっちかに決まっています。この文読んでる今頃になってもまだ、青山、原宿辺ウロウロしてるのみかけたなら「あ、あのバカ、卒業しそこないやがって」って思ってコーヒーの一杯もおごってください。コーヒーはウィンナ・コーヒーがいいです。
 大学の四年間、何やってきたかっていうと、ご存じフルート吹いてたんです。ただそれだけ。都民の皆さん、税金の無駄使い許して下さいね。でもたまに、気が向いた時には、ちゃんと化学のお勉強もしてたんですよ。ごくたまには。
 それにしても、ジェームス・ガルウェイのフルート、ローター・コッホのオーボエ、いいですねえ。え、なんでこう急に話が変わったかっていうんですか。それはね、実は今、ベーム指揮のポストホルンセレナーデのレコードかけてんですよ。それがまさに、第三楽章コンチェルタンテの旧所にきたんです。
 しばらく手を休めて聴きます。
 今、四楽章まで終わってレコードひっくり返してきたところです。
 ところで、レコードプレーヤー、オートチェンジャーなんていうのはありますけど、レコードひっくり返す器械ってありませんね。
 この方が利用価値あるのに。
 なんか話があちこちとんで、何が何だかわかんなくなりました。
 この文の主題がわからないでしょう。それも当然、主題なんて最初っからないんだもの。
 それで何で書いているかっていうと、万年筆で書いているんだけど、つまり、ぼく、去年の秋から半年ばかり、レッスン休んでたもんでここでこれ書いとかないと、存在の影がうすくなりそうな気がして。
 ぼく、まだ健在ですよってこといいたいんです。
 都立大のオケもまだ健在、水も ません。
 ヤマハの楽器いいですよ。買ってくださいね。
 無事卒業してたら今、浜松にいるんです。
 大分支離滅裂になってきました。
 ここで終わります。

 

 

     私が今一番うれしいこと              石井貴美枝

 私が今、一番うれしいのは、インコが遊んでいる所を見たり、水浴びさせることです。
 私の家は、インコが七羽いて、六羽が水色のきれいな色で一羽だけが、ありふれている黄色なのです。その一羽のインコが手のりで、とってもかわいいのです。
 ふつうインコは文鳥などとちがい水浴びでも、水もあまり飲まないで、水入れは、ちぎった新聞紙や、フンを入れて遊ぶだけなのです。けれどこのインコは、水入れの水をとりかえると飛んできて私の手にとまり、水を飲んだり、体を水で洗っているのです。
 インコは文鳥をちがい、羽がかわくので、文鳥は1~2分、インコは5分ぐらいやっています。それがとってもかわいく私はいつも顔をニコニコさせているのです。
 昔、私が小学校の時、飼育係でインコを育てた時、私達の育て方がよかったのか、卵がいっぱいかえり、とってもたのしかったので、今でも、おとなになったインコを夫婦にして卵をかえさせています。
 私の作文を読んで、鳥を育てたいと思う人は、エサはいつも多からず少なからずで、水は朝と三時ごろの二回で、緑は毎日あげなくてはいけないのです。
 鳥は敏感なので、においのつよいカトリセンコウや、石油を回りにおくと、においで死んじゃうことがあるので気をつけてほしいと思います。

 

     いやなこと                     根岸 恵

 フルートを習いはじめてから、いつも気にかかることがあります。それは、フルートのレッスンに行くと、私がやっているときに、わらわれているような気がするんです。
 私は、ならったばかりで、はじめの方なのに、みんなは、すすんでいるからです。
 私は、音楽学校へ行くつもりです。このことを話すと、
 「それには、ピアノをいっしょうけんめいやらないと、だめだ」
と、言われました。
 私は、ピアノを幼稚園のころからやっていたので、あきあきして、やりたくもないのにやらされて、いやだなあと思うことがたくさんあります。
 でも、ピアノのおかげで音楽学校へいけるのなら、それでいいと思っています。

 

     鈍行列車                    田宮治雄

 鈍行列車・・・・機関車にひかれてトコトコと歩くように進む列車。茶色のすすけた客車が、カラフルで気ぜわしく走りまわる電車たちを悠然と見おろしている列車。そんな鈍行列車が、わが中央線にも三本残っているのです。
 三年前、私はある経理学校で毎晩遅くまで算盤をはじいていました。そして日付が変わる寸前に新宿駅からいつも飛び乗ったのは、この鈍行列車でした。
 山へ行く人々の中で一人ぼっちでしたが、私は教室から解放された喜びでいっぱいでした。ニスが黒く光る腰掛はまるで玉座でした。デッキのはだか電灯はシャンデリアよりも輝いてみえました。軽やかなレールの音はモーツアルトを思い出させてくれました。
 一日がこの鈍行列車に乗るためにあるようなものでした。
 ある時、私に恋人がいるという噂が立ちました。誰かを待っている顔をして東京行の電車を何本も見送っていたところを悪友が見つけたのでした。そうです。私は待っていたのです。見かけは悪いが心のやさしいこの恋人を・・・・。
 甲州のかおりのする車内で流れていく景色に目をやって、私は幸せでした。
 先日、私は高校時代ひそかに思いを寄せていた女性に会いました。しかし、五年の歳月はとり戻せそうもありません。
 いや、それよりも、昔と変わらぬ片意地な姿を彼女に見せてしまった私に失望しました。ところが、その晩眠れなかった私を次の日に慰めてくれたのも、この鈍行列車でした。
 冬の日を浴びているうちに、私は気をとり直し、大都会に吸いこまれていったのです。
 こんな鈍行列車も、三月に消えてしまうのです。私は精一杯抵抗したいのですが、とても力が及びそうもありません。
 あと、たった一か月しかありません。
 「笛吹きたち」第4号が発行されるころ、私はまた失恋していることでしょう。

 

     「ある音楽との出会い」              亀井周二

 それは丁度、高三の春であった。
 毎年春になると転勤になる先生がきまって、おわかれの挨拶をする。その年も三、四人の先生が転勤になった。一人二人と先生たちは朝礼台に登り、丁寧な、いかにも教育者らしい言葉を残して段を降りていった。そして最後に一人の大きな図体をした先生がゾウのようにのっそりと台に立った(この先生には私は授業で教えてもらったこともあって親しさを覚えていた。彼は学園祭が近くなると、きまって授業を自らサボり生徒に応援歌を無理矢理、歌わせた)。
 彼は朝礼台に立ったかと思うと「私はバカで常識がないから上手な挨拶はできない。しかし私は教師になって以来ずっ―とこの学校にいた。私はこの学校が大好きだ、挨拶にかえて、大好きなこの学校の校歌を歌います。」と言って突然歌を歌い始めた。聞いていた人々はみなびっくりした。無論、私もびっくり「何だこれは!」と思った。マイクがこわれるかと思うような、実に大きな声で、すばらしく音程とリズムがはずれ、それはもう歌うというより叫ぶという方が事実に近かった。しかし彼は、はずかしさの情を一片も見せず、何とかリズムを取ろうとして不器用に大きな腕を振りながら三番まで歌い、否、叫びまくった。最初かなりあった嘲笑も二番あたりから全くなくなった。
 彼がさびしそうに肩を丸めて段を降りていく姿を眺めながら、私は涙を流してしまった。そして「先生は誰よりもこの学校が好きだったのだ。こんなすばらしい歌に、こんな感動する歌に出会ったのは初めての経験だ。これこそ眞の歌だ!音楽だ!」と心の中で思った。
 話は少し変わるが、私はこんなことを、ふと感じる。
 ちゃんと音大か何かで声楽を習ったプロたちが誤りのない、正しい音程、リズム、ハーモニイで歌った宗教音楽よりも、アマの人たち、たとえば修道師たちの歌うそれの方がより深く感動を覚える。
 又、教会において、音大での未信者の誤りのないオルガン奏楽よりも、たびたびつっかえるアマのクリスチャンのそれの方がなぜか、魂にやすらぎを覚える。
 又、クリスマスなど流行歌手のうたう讃美歌は上手なのかもしれないが、実にシラケル。それよりは、教会に来ている八十才のおばあちゃんの方がぐっと、ハートに迫る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・(しばし瞑想にふける)・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「そうだ!音楽の求めるべき最終的なものは、誤りなく音程、リズム、ハーモニイの正しさを保つといったようなテクニックを超えたところにあるのだ。そうだ!ハートだ!どんなにテクニックがあってもハートがない音楽なんて眞の音楽じゃない!」と叫んだら横にいた音大出のうちの奥さんは、
 「あなたの云いたいことはわかるけど、今のあなたがそのことを主張するのは、自分の音楽的素質のなさ、テクニック不足、つまり練習不足の自己弁護にしか聞こえないわ。」
 「いくら『ハートだ!ハートだ!』と云っても、そのハートを具体的に、しかも客観性を持たせて表現するためには、テクニックと云う媒介が必要なのよ!
 特に楽器を演奏する時には。」
 「さあ!そんな事を云う暇があったらフルートでもさらいなさい!」とピシャリとやられました。
 (・・・・・・・・・・まずいのを奥さんにしちまった。時すでに遅し!今年の五月にはオヤヂになるという状況なのです。)                終り

 

     「麗子微笑」                   田代千代子

 先日、偶然に机のひきだしから、岸田劉生の「麗子微笑」という絵の印刷された絵はがきを見つけました。この絵を見ると、懐かしく思い出す人がいます。
 その人は高校時代のクラスメートでした。高校二年の秋、その人と私は新宿まで劉生展を見に行った事がありました。岸田劉生の絵は「切り通しの写生」くらいしか知りませんでした。
 そこで私は、様々に描かれている「麗子」も見たのです。奇抜な構図と云い、肉筆である華麗な「麗子」の絵は、かわいらしさと同時に、又、妙に大人っぽさを感じさせるものでした。
 私は非常にその「麗子」が気に入って小さな絵はがきを何枚も買ってきたのでした。それがあの「麗子微笑」だったのです。
 それから、三年になってクラスが別れ、大学受験をさかいに、その人の消息はわからなくなってしまいました。
 ただ、友人から今、横浜に住んでいるということを聞きました。
 それを聞いた前後に、あの絵を見つけたので、ことさらなつかしく、その人のことが、私の胸に浮かんできたのかもしれません。   

 

     だれも聴いたことのない音楽            吉田明美

 音楽をお燗したらどうなるか
 これは私の初夢のおはなし

 夢の神に連れられて、わたしのきたところは
 不思議な音楽の世界
 お燗された音楽は少しづつ盃に流れ
 盃に溢れた泡はリズミックな不協和音 
 バッカスに操られたニジンスキーが
 酒宴の舞踏をおどっている。
 床に流れ落ちたふたつの八分音符
 甘美な音の戯れ
 不気味な弦とフリュートのつぶやき
 透明な静穏さがあふれ私を魅惑する
 突如として、
 鷲のように大空に舞いあがったニジンスキー
 酔っぱらって歌っている天使
 逆上した和音のはげしい轟音、

 朝、夢が消え目ざめても、あの不思議なひびきは、
 宿酔のようにわたしを悩ましつづけたのです。

 結論、決して音楽をお燗するなかれ

 

     空の本箱                     根岸咲子

 私の女学校三年頃迄は、本箱に入りきれない本が棚にまで積んであった。これは小学校からのもので、のらくろとか、冒険ダン吉等まんがから文学書迄、雑多である。
 大切にしていたので、何年たっても新品同様であったが、三年生の半ば頃より減り始めたのである。学校と市電(都電)の停留場の○の裏通りに「すもう」と、のれんを下げた小さなおしるこ屋があった。主人は相模茶屋で働く人で○○以外は奥さんと二人でこのお店を開いていた。或る日、ブラスバンドの上級生が○○○○・・・○。裏通りであれば恐い先生の目にもつかず、恰好の場所であった。
 お弁当の他に放課後学校で買ったパンを食べて練習に入るが,終える頃は適度の空腹感におそわれ、自然にそちらに足が向くのである。始めの頃はおとなしくして食べて帰っていたが、顔なじみともなると一段と注意深くなり、出入り口は裏口となって来た。
 おばさんも心得たもので、私たちが行けばのれんは中に入れて、鍵まで掛けてくれる様になった。
 何しろ、十人も入れば満員なのに、それ以上の人が押しかけるのだから、あちらはホクホクで、貸し切り状態である。この店のメニューは三種類
 おしるこ=現在の上品なお椀の三~四倍も入るお丼
 みつまめ=立喰いそばに使う丼
 おでん =五品
 これがどれも五銭であった。
 当時としても普通の店の二~三倍はあったろう。
 父より毎月十二円もらった。
 これは月謝と電車賃を払えば小遣いはいくら物価の安い時代とは云うものの、それ程多い額ではなく、当然毎日行けば不足してくる。パン代は母にもらっているものの、まさかおしるこ代までは請求できない。
 幸いなことに子供の頃、私は上野の繁華街に住んでいて、夜ともなると広小路の大通りをはさんで両側に露店が店を出す。
 その中の古本屋の小父さんに、或る日、三冊ばかり持っていったら良い値段で買ってくれた。
 本はたくさんあるし、これで不安は解消して相変わらず「すもう」に足を運んだ。
 そして卒業する頃はほとんど無くなってしまったが、悔いは全く無く、楽しい思い出だけが残っている。
 それは二月二十五日の空襲で全部焼けてしまったのだから・・・・。

 

     グールドとルーカス=グラーフについて       上野昌彦

 この二人の奏者にはいくつかの共通点がある。
 賛否両論の渦巻く中でさえ自分というものを見失わない点で素晴らしいと思う。
 なぜ賛否両論かというとグラーフはともかく、グールドの方は常識で考えると、ちょっとどうかと思ふような理論を設定し、そのまま楽器で(ピアノ)立証してみせる。
 まあ普通の人がやると非常識という事で葬り去られるのだろうが、この人の場合は技術的に神技的であり、ものすごく説得力があるので、かろうじて成立っている。
 そんな訳で、ある意味では、この両者は危険な位置に立っていると思う。また、他の分野は問題があるが、バッハの解釈においては、今の所、第一人者と云わざるを得ない。
 グラーフの示した様な演奏こそ現代に望みうる最上のバッハ解釈だと僕は信じているが、
たとえば他に何か違った解釈をするとしても、あの解釈以上の事が他の人にでき得るのかどうか非常に疑問に思うし、もしあるなら知りたいと思う。
 僕は何か気にいったレコードがあると、最低二週間くらいは毎日そればかり聞くが、この二人の作品は何回聞いても不思議とあきない。
 作品に興味が起こるとその人物を知りたくなるので、いろいろ調べることになるが、グールドという人はその点奇行が多いので有名なのでとても面白い。どこかのレコード会社の偉い人が彼に握手をしようとしたところ、指をいためるという理由でことわられたとか、バーンスタインとの共演のブラームスでは信じられない位、テンポがおそく、おまけに音は聞こえない位に小さかったとか、並べたてればきりがないが、最も興味深いのはステージを降りてレコード制作にすべて没入したことで、それはつまり「コンサートに来る客を信じられなくなった!」という理由である。まず、ピアノをひく前に二十分きっかり温水に手をつける、そしてすわるのは体の動きに即して作動する自由椅子でこれは彼の発案らしい。又、座右には体調を整えるための数多くの薬品が並べられている。
 こうして別々に述べて来たが、それでは両者の共通点はと云うと、一言で云えば『音宇宙』を持っている事だ。
 他の人の踏み込むことのできない、悪く云えばエゴのかたまりと云おうか、その奏者の叫びがそのまま音になっている。
 僕は伝統よりその方が総体に重要だと思う。
 グラーフにしても確かに伝統的に見れば、かなり不自然な感じのところもあるが、そこには「これが自分自身で、これが絶対正しい」という声が聞こえてくる。そうするとどんな単純な事をやっても、たちまち時間が密度に富み、時のたつのを忘れさせる。これが音楽の正体ではないだろうかと思う。
 まあ、他の奏者にそれが無いとは断じて云わないが、特にこの二人からは強く感じてしまうのである。また一度気に入ると、あばたもえくぼで、良くないといわれている演奏も何だか好きになってしまう事があるので、これからもこの二人については(本物か?偽物か?)見極めていきたいと思っている。

 

     私の夢                      下山孝子

 私は今、横浜市役所に勤めています。所属は市民広報課で、仕事は“広報よこはま”の編集とパンフレットの作成。その他、広報紙関係の配布や謝金のことなど、とても忙しいのですが、その反面いろいろなことが勉強できて楽しい職場です。
 とは云うものの、忙しいために残業や、家で仕事の関係の本を読むなど、私生活に仕事が食い込んでいる状態です。
 そんな訳でフルートはいつも練習不足。なかなか上達しません。でも仕事に追われている毎日だからこそフルートは私にとってとても重要なものになっています。これからも細々と続けて行きたいですね。
 さて、私の夢ですが・・・・(ずい分長い前置きになってしまいました)それは音楽好きの友達といっしょにホームコンサートを開きたいと云うことと、恵まれない子供達や、お年寄りのみなさんに楽しんでもらえるような音楽会を開きたいと云うこと。フルートをただひとりで練習して満足しているだけでなく、皆と楽しめるものにしたいと思うのです。
 この夢が実現するのはいつのことでしょう。でもこんな目標を置くと随分張りがあるものです。
 先が全然見えない長い道ですけど、歩いて行くことにいたしましょう。

 

     軽く読みながしてください             池辺研一

 オケや合奏をやっている方はご存じだと思いますが、ピッチが温度によって変わってきます。寒い今頃だと吹きはじめは440Hzを割ることさえあります。しかし温まってくるとピッチが上がって来て、オーボエとオクターブなどという所では真青になるわけです。なぜ温度によってピッチが変わってくるかを少し考えてみようと思います。
 まず、温度によって楽器が伸び縮みすると考えるのは、まちがいです。これはほとんど無視できます。(10℃温度が上がった時、1mの銀棒は約0.21mmしか伸びません)
 笛を吹いて音を出すということは物理的に云うと、キーによって作られた空気柱を振動させることになります。
 また、この空気柱の何倍かがその音の波長となります。
 波長は前記の通り温度による影響はほとんどありません。
 では温度に関係する物は何かと云いますと、それは音速なのです。音速V(m/s)は
V=331.5+0.6t(t:c)という関係(誘導は略します)があり温度が高くなれば音速も速くなります。
 また、周波数=音速/波長という関係に前式を代入すれば、耳に感じる周波数も温度とともに高くなって行くことが理解できます。
 なお、楽器の材質と音色の関係に興味のある方は河出書房新社の現代の科学㊹“音と楽器”をお勧めします。

 

     萩原碌山のこと                  田中洋子

 去年の秋、一冊の本を持ち信州穂高にある碌山美術館を訪ねてみました。その一冊の本とは知人より偶然手に入った、仁科淳著「碌山」萩原守衛という彫刻家の生涯と、芸術家への発展過程を資料によって書かれたものです。
 本を読むにつれ、中村屋と一人の芸術家萩原守衛との関係に強く興味を持つようになり、又、碌山の人柄にひかれて、ぜひ碌山の彫刻や生まれ育った信州の地に行って見たくなったのです。
 松本から大糸線に乗り換えるのですが、そこにひらける景色は一変し、車窓にはのんびりした田園風景や美しい山なみ、すんだ空・・・・私はこがねの海に目をやりながら、碌山が異国の地にあって、ふるさとを思い、なつかしむ様が私にも、しみじみ解るような気がしました。
 穂高の駅を降りると美術館への道は若者でにぎわっていました。つたのからまるその建物は、碌山を愛する多くの人々の力によって建てられ、碌山が若くして基督教に傾倒していた事もあって、チャペル風に造られております。
 朝な夕なに空に鳴る鐘には、友人の名が刻まれているそうです。私は胸がワクワクする思いで中に入ると、案外こじんまりとした室内で、大勢入っていましたが、落ち着いた空気が彫刻をつつんでおり、中央にいくつかの彫刻がならび、壁にはフランスのアカデミー=ジュリアンで学んだ人体解剖のデッサンや、友人や家族あてに出した手紙など展示されていました。
 中でも中村屋黒光のおもかげがあると言われている<女>や黒光におくった香炉、それに守衛が角筈のアトリエで使ったきづだらけの作業台が特に印象的でした。
 黒光への思慕になやみ、どうにもならない守衛の気持ちが<女>への制作となり、最後の焔となってついに、中村屋の居間で突然喀血し、明治43年の春、32才の若さで相馬夫妻、友人達にみとられ絶命してしまったのです。
 農家の五男に生まれ、農業を手伝っていた守衛は18才の時、心臓病になり家業を手伝うこともできずにいた頃、同郷の相馬愛蔵の首唱する「禁酒会」に入会します。そこではキリストの教えや、日常道徳を青年達にといたのです。
 そんな愛蔵の家に出入りするようになった頃、愛蔵は妻、良(黒光)と結婚します。東京の学校を出た良はオルガンと一枚の絵を持ってきました。長尾杢太郎画<亀井戸風景>守衛がはじめて見た油絵。この絵との出合いがきっかけとなって画家の道に進んだ守衛でした。
 相馬夫妻が、本郷のパン屋「中村屋」を買取り、商売をはじめた頃、守衛も後をおって上京し、美術学校にかよい、長尾杢太郎にも会います。
 23才の時、洗礼をうけ、渡米し苦学しますが、しばらくすると、レンブラントに憧れ、オランダに渡り、フランスに行きます。フランスでは毎日美術館を見て歩きますが、そんなある日、守衛はロダンの<考える人>の前に立ち、魂がゆすぶられる思いになり、頭の先から足の先まで一点の隙間もなく、想いに満ち、内部に充実しているエネルギーが自然と発露していると感銘し、はじめて芸術の威厳に打たれ、油絵の道から彫刻の道へと転向する決心を固め、アカデミー=ジュリアンの彫刻部に入学し、又、ロダンにも会うことになります。
 そして彼から、造形は単なる形にとらわれず、造形のための深い精神の集中が重要な事とおしえられるのです。
 そして校内コンクールで二等賞を受賞し、郷里の友人や両親に写真に写して送っています。
 自分のあとを追ってやはり渡仏していた高村光太郎が今度ロンドンに渡ってしまったため、守衛は思いきってロンドンに行きます。そして、大英博物館にあるエジプト彫刻に目をうばわれ、夢みる美でもなく、理想をおう表現でもなく、そこには「力」がはりつめ、今まで見て来たヨーロッパの伝統的な遺産よりも、エジプト彫刻と関連性のある京都、奈良の日本の彫刻の方がずっと大事なものを持っているかもしれないという予感が強まり、七年間の留学を終り帰国となります。
 帰国後は中村屋の近くにアトリエを建てることになっていましたが、まず、両親、友人のまっている信州に帰ります。
 守衛はそこで春蚕の時期でもないのに帰っている愛蔵の秘事を知り、急ぐようにして上京し、一人で店を守って、かいがいしく働いている良を見て、にわかに身近な存在になり、同情も加わって、思慕が恋慕に変わってゆくのをどうする事もできなかったのです。
 守衛のなかにある自分でも気づかないものを引きだし、伸ばしてくれたのは良という存在であったように思うのです。
 女が精いっぱい生きようとしているそこからくる魅力や、良のかもしだす雰囲気が、守衛を成長させたとも思います。
 最後の作になった<女>は守衛の亡くなった年の文展に入賞し、明治の最高の傑作として、後年重要文化財に指定され、現在、近代美術館にもあるそうです。
 そして碌山の名や、黒光の名は、いまも中村屋のお菓子の名として残っています。

 

     楽しかったフルート合宿              大塚章子

 七月の最初のフルートのおけいこ。
 レッスン場には、大きなはり紙があり、夏合宿の事が書いてあり、下に合宿に行く人の名が書きこんでありました。
 私が、すぐに見つけたのは「下山」とゆう名前です。前に音楽会で、私がとてもすてきだと思っていた方です。
 私は家に帰ってさっそくお母様に夏のフルート合宿に行かせて下さいとお願いをしました。お母様は、少し考えていました。
 何日目か、あまり私がお願いしたので「行ってもいいわよ」とおゆるしが出ました。
 八月八日、今日がフルート合宿です。
 私はうれしくてしかたがありません。上野駅の集合場所に行った時、大人の人ばかりなので、この人たちとやっていけるかしらと思いました。
 しばらくの間、みんなと話すのがちょっとはずかしかったけれども、一人の人と話してるうちに、だんだんなれてきました。
 汽車に乗って、駅のホームに立っているお母様を、ずっと見ていました。汽車が動きだしてだんだん駅とお母様が遠くなっていきます。けれどもいつもの時よりも、悲しくありませんでした。
 いなわしろまで行くのです。着くまでに二時間はかかります。
 みんなと食事をしたり、トランプをしたりして、汽車の中ではとても楽しかったです。旅館について荷物をおくと、もうフルートを吹き始めている人がいました。
 自由時間の時、青崎さんとばんだい山にのぼって花輪をつくりました。そしてまたおりていくと、小さなかんばんが出ていて「草花をとってはいけません」と書いてあったので、
「あっ、いけない」と言ってしまいました。
 とても楽しい一日でした。
 次の日は朝起きると窓から、きれいに連なる連山が見え、とてもすてきな風景でした。今日九日は五色沼に行くのです。
 沼の入り口は、とてもこんざつをしていました。中に入ると写真を写している人でにぎわっていました。
 私達は一本道を歩いて行きました。私は「まだ着かないの」と言っていたら、「一番若いのにだめだね」と言われてしまいました。私は、むかっときて、一番せんとうに出て歩きだしました。一番おくの沼に着くと、つりをする人でにぎわっていました。私は先生とボートに乗りました。そして、はなれ小島でお昼を食べました。ボートからおりると、小ぐまを見つけました。昼ねの真さい中でした。
 それから、おみやげを買いました。私はランプを買いました。
 旅館に帰ってからは、フルートの練習をしていました。
十日・・・・・・
 今日は、リトミックテストがあります。
 けれども私は、のどがいたくて、せきがひどく出るので ねていました。テストが終わって、みんなが帰って来て、
 「あきちゃんは、テストやらなくっていいな。むずかしかったわよ」と言っていました。私はやらなかったので、むずかしかったかわからなかったけれど、やったらどのくらいできたかしらと思いました。そして、よくリトミックテストでやったことを聞いてみました。できそうな物もありましたが、やはりむずかしい物もありました。やって見てできなかったらしかたがないけど、やって見たかったです。
十一日・・・・・
 今日は合宿最後の日です。
そして、この合宿で練習した曲のえんそう会です。私は四人のグループでチャイコフスキーの「かなしき歌」を吹くのです。
 みんなが部屋に来る前に、一度全部とうして吹いてみました。
 先生が「今の調子で本番の時もがんばりなさい」とおっしゃってくださいました。
 私は前から四番目です。私の番はなんとなく早く思いました。私はちゃんと出来るかと、ドキドキしました。そしてみんながみていると思うとなおドキドキしました。
 はじめの方はよく出来ました。けれど中ごろへ行くと、音がかすれて、出てこなくなりました。一生懸命楽ふを見て、やっとこさっとこでおいつきました。それからまた音がよくなってきて、最後までずっとよく出来ました。終わってから先生に、「とてもよく出来たよ」と言われました。私はよかったと思いました。
 帰りの汽車の中では、えんそう会の時のカセットを聞いていました。上野に着くとお母様がまっていて
「みんなにめいわくをかけなかった?」と聞かれました。
「うん」と言うと
「えらかったわね」とほめてくださいました。

 

     「ハイ、次!」ソナタ形式による          わたなべ てつお

提示部
 西武新宿線の玉川上水駅を降りて、進行方向に目をやると、いくつかの白い建物が見える。それが国立音楽大学の上水台校舎である。その中で中核をなす建物が、手前から二つ目の「本館」である。中へ入ると「学生ホール」と言って、学生達の寄り合い場所になっているところがあり、周囲にはいくつかのクラブ、同好会、合唱団等の連絡黒板や、はり紙がある。
 今から三年前、入学許可を受けて初めてここへやって来た時、主人公Tは、今までに聞いた事のない言葉を目にした。
 「ブラスオルケスター追い出し会」
というはり紙である。その「追い出し会」という言葉が、団員全員を強く結びつけている代表的なものであり、ブラスオルケスターの面々が、卒業して行く学生のさびしさを乗り越えた楽しさにしている様に思えた。Tはその一員に加わった。

展開部
 冬が過ぎ、また春がやって来た。この一年間はとても疲れたという一言で言い尽くせる。九時から始まる授業にTは、朝六時半に起きて七時過ぎに家を出る。学校まで約一時間四十分、かかる。今度、東北新幹線が出来れば、新潟まで一時間半で行くというのに・・・・。
 学年末に専攻の試験がある。Tはあわてて伴奏者をみつける。(教訓その一、あせっちゃぁいけないよ)
 試験を目前にしたTはこの事で頭を痛め、これ程沢山ピアノを弾く人がいるのに、こんな苦労をするとは思っても見なかったのである。中には学生ホールにはり紙をしたり、伝言板に「求む伴奏者、美人」等あったりする。
 求める人は見つかった。
 容姿端麗で良く弾いてくれる。
 レッスンに於いてはピアニスト歌い方は良いが、フルートがまずい等言われたものであった。
 日がたつにつれ、若いTはその人を恋しく思う様になり、心の中は彼女の事であふれんばかりである。
 生来おとなしい性格のTは、思いが行動に出なかったので、とうとう心の中を伝えるチャンスを作ることが出来なかったのである。そこで神様が言われる。 
(教訓その二、求めよ!さらば与えられん)
 彼はこれまでにも何人かの人に恋をした。しかしそういう性格であるため、彼の奏でる笛の音と同様、「クリヤー」に終わって いるのだ。
 今、Tは三年生で、専攻の試験を一週間前にして、「ホンコンA型」にかかり自宅療養中である。学校には、管、弦、打楽器の為の研究室があり、フルート科は「銀笛」という部屋がある。この寒さで多くの人がカゼをひき、研究室にたむろしている。 マスクをしてじっといる者、人前でわざわざセキ込む者、もう部屋中がカゼの菌を培養している研究室となっている。
 昨年九月からTは、体力増強のために「養命酒」を飲みはじめ、しばらく健康は保たれていたのであるが、とうとうダウンしてしまった。Tは思う。「飲む量が少なかったのだろうか?」と。

再現部
終結部
 Tの青春は、どうやら音楽と恋で満開である。
 一つの曲を追及する姿勢をいとしい人を求めると同様に、いや後者の方を重んじた方が結果は良くなるでしょう。
 しかし、彼が今しなくてはいけない事、それは「フルート」を吹く事でありましょう。

 みなさん、この主人公Tを通して得た結論から、あなたは今、自分が何に重点をおいてしなければならないかという事が、おわかり頂けたかと思います。
 そう!今日は発表会です。頑張りましょう。そして、今日も、明日も、あさっても、より良い「音」を求め続けましょう。

 

     遊びのない子供達                 細野秀子

 私の小学生時代の思い出といえば、いろいろありますが、やはり何と言っても、友達と遊んだ事が思い起こされます。
 毎日、学校から帰るとすぐ近所の友達と近くの遊び場へ行っては、まっ暗になるまでよく遊んだものでした。あの頃はまだ、緑のおい茂った木がたくさんあって、よく木登りをしては、落っこちて怪我をしたり、それでも木の上に家を作ろうと必死に板を集めたり・・・・夕方おそくなって母が、「もう遅いから家にはいりなさい」というのも聞かず、どろんこになって自分の遊びを夢中で続けていたものでした。
 今もまだ、あの遊び場を通っては、なつかしい気持ちになりますが、最近あの遊び場が寂しくなったのに気づきました。
 以前は、あんなに子供達の姿でいっぱいだったのに、今では、夕方まだ明るいのに声一つ聞こえません。一体、どうしちゃったのかしら・・・・・?ブランコもすべり台も砂場もみんなつまらなそう・・・・。
 今の子供達は一体、どこで遊んでいるのでしょうか。
 いいえ、今の子供達は、遊んでいるのではなく塾へ通ったり、習い事をしているのです。あの子供達には、私達の時のように遊ぶ時間がないのです。学校で勉強しているだけでは、なぜダメなのでしょう。今、日本の小学生全部がそうではありませんが、なぜ、こんなに勉強ばかりしなければいけないのでしょう。
 何年か前までは、高校における大学受験の為の教育が問題になりましたが、今は小学生から受験の為に勉強しているのです。
 あの幼児期から、学童期、そして青年期にかけて人間のあらゆるものの発達形成の大事な時に、感情発達的情操性の教育を無視して、一体、人間性の教育などできるのでしょうか。
 今の親や教師達は、子供達をどのように考えているのでしょうか。塾や家庭教師、習い事も結構ですが、それらを子供達に押しつけるのでなく、それらを、子供達の興味、関心への機会として与え、子供達のやりたい事をやらせてあげる方が、良い結果となるのではないでしょうか。
 勉強のやりたい子は勉強をし、絵の描きたい子は絵を描き、歌の歌いたい子は歌い、遊びたい子は遊ぶ・・・・・・
 成績や技術から離れて、その子供の今やりたいという感情が、大切だと思います。
 私は、子供はもっともっと遊ばなければいけないと思います。 
 自然の中で、思いきり遊ばせたい!!そして遊びを通して、成長していかなければいけないと思います。
 子供は子供らしく、又、感情面の豊かな子供として・・・・。
 それにしても、今の大学受験制度、もしくは、日本の学歴社会制度が改善しない限り、子供達の遊びの世界を取り戻すことが、できないのでしょうか。

 

     ・・・21の季節・・・             西広慶二(埋木舎)

夕暮時

雀がやけに騒がしい夕暮時
暗くて寂しい事務所にひとり
ラジオから流れ出る音楽と
一緒にいつまでも
雀が騒がしくさえづる
寒い日の夕暮時

誰も尋ねて来ることもない
ひっそりとした小さな事務所にひとり
遠くで大工の釘打つ音が
規則正しく聞こえてくる
冬のはじめの夕暮時

釘打つ音と雀のさえづりと
音楽がひとつになって
頭の中に入ってくる
まるで別のものなのに
心の中でひとつになって
寂しさを奏でる
やりきれなくなりラジオを止める

しばらくすると雀の姿が消え
大工の釘打つ音も聞こえなくなる頃
あたりは暗闇につつまれていく
みんなどこへ帰ったのだろう、雀も大工も
さわっても冷たいラジオだけが残る
冬のはじめの夕暮時

老人のうた                    埋木舎

多摩川に飛ぶ水鳥のさびしさや
群れをはなれてなく鳥一羽

死にたいと詩を作りし旅に出て
雪国の宿に我に似る人ぞ

人恋しく哀れにゆれるわが心
月にも似るや淡いその姿

愛などは存在しないものだから
去っていったのに、未練なぞはない

枯れいそぐ落ち葉のかげに寄りそえば
空しく残る我が涙の跡

 

     流楽の記                     石原利矩

 「笛吹きたち」3号でお約束した通りウィーンのお話をいたしましょう。
 その前にちょっと一言 
 人間には「過去」と「未来」があって、その二つを分けているのが「現在」ですね。こうやって、あなたがこの文章を読んでいる時が「現在」。ホラ、そこにあるでしょう。と言われてキョロキョロしている間にも「過去」と「未来」を分ける「現在」という境界線は刻一刻と流れているんです。そう、あなたと一緒になって。そしてあなたは過ぎ去ってしまった「過去」と云うものは、もう手がとどかない。時がたてばたつ程、遠くはなれて行ってしまうものと考えてはいませんか。僕も少し前まではそう考えていました。
 しかし、最近そう考えるよりも、過ぎ去った「過去」が「現在」の自分自身の気持次第で、いくらでも豊かに作り変えられると考えた方が、人間をやっている以上、より楽しい事ではないだろうかと思う様になりました。
 僕がNHK交響楽団に入団したのが1964年。ちょうど、東京オリンピックのあった年です。
 それから数えて一年半後。
 横浜を発って、ナホトカ、ハバロフスク、モスクワを経てウィーンに着いたのが1966年8月末でした。物質文明のおくれていた共産圏をぬけて、最初に着く大都市がウィーンなのですが、そのズュード・バーンホフ(南駅)に降り立った時は何かホッとした気持になりました。
 約半月程、ペンションやホテルに泊まりながら、下宿さがしが始まりました。留学生が一番苦労するのが、ドイツ語もさる事乍ら下宿さがしなのです。「音楽の都」などと云っても、ウィーンの人々がすべて音楽好きだと云う訳ではないし、昼休みに音を出せば、上の階からトントンと床をたたいて注意されるし、いわば音楽を志す者にとって、ついてまわる業と云うものでしょう。
 やっとさがしたのが、少し耳の遠い一人暮らしのおばあさん家。
 電話が鳴ると家中ひびきわたる様にベルを増幅していました。
そんな訳でいくら音を出しても文句一つ云われなかったんじゃないかと思っています。
日本を発つ時には、ウィーンで師事する先生は、コンセルヴァトリウムのカミロ・ワナウゼック教授と決まっていましたが、いざ入学手続きを済ませたら、オーストリア政府給費学生は音楽アカデミーに行かなければいけないと云う事で困ってしまいました。コンセルヴァトリウムと云うのはウィーン市立で、アカデミーの方は国立なのです。どうも話がうまくはこばないので、コンセルヴァトリウムの校長先生が「そういう事なら、例外として認めてあげるから、アカデミーの試験を受けて両方に通いなさい」と云う事になりました。
 今考えれば、期せずして、両方の学校に通い、二人の先生に同時に師事できたことは大変幸運な事だったのです。もう一人の先生と云うのが、ウィーン・フィル・ハーモニーのハンス・レズニチェック教授。初対面はアカデミーの試験場。「何を吹きましょうか」と聞いたら「何でもいいよ」との返事。モーツアルトのニ長調の協奏曲を吹きました。
 日本の音楽大学は入学する時はむずかしく、卒業するのは簡単ですが、むこうではちょうど逆で、入学するのは簡単ですが、卒業するのが非常にむずかしいんです。そんな訳で僕も簡単に入学させてもらいました。
 ウィーンに来る前は一年半ばかり社会人もやっていましたが、又、学生の身分にもどりました。いいものですね、学生って。
 出来ることならあと一度位、学生やってみたいです。
 さて、ワナウゼック先生のレッスンが水曜と土曜。レズニチェック先生が月曜と木曜。通算週四回のレッスンがあった訳です。レッスンはきつかったけれど音楽以外に何もしなくて良いんですから、こんなすばらしい事はありません。あとは音楽会、オペラを聴きに行くこと位。
 オペラの切符について少しお話し致しましょう。
 日本の音楽会って、どうしてこんなに高いんでしょう。勿論ウィーンにも高い席もありますが、非常に安い席もあるのです。どの位安いかって、おどろくなかれ当時1シリングでした。1シリングは14円でしたが、因みに公衆電話三分の1シリングでした。そのかわり立見席なんですが、立見と云っても1階中央の最後部 上野の文化会館で云えば、ちょうど大理石あたりなのです。
 そこに集まる連中は、学生がほとんどで、ずい分顔なじみが出来たものでした。長時間のオペラの時などは、貧血で倒れる人が出たりしますが、何か一種の連帯感みたいなものが生まれて、助け合っていました。日本にもこの立見席が出来れば、音楽をもっと楽しむ層が増えると思うのですが。しかし、立見で入って、席が空いているからと云って座席に座ったりすると、係の人がサッと飛んで来て立たせますね。その早い事はおどろくばかりです。ウィーンフィルの定期演奏会の切符が立見席5シリング、今度の日本公演の約百分の一ですね。ですから、むこうでは小学生位の子供が友達と一緒に聴きに来るなんて事も出来るのです。
 つえをついたヨボヨボのお年寄りも多く見かけました。音楽が生活にとけこんでいると云うか、音楽が音を楽しむものだと云う事を知っていると云うか、これは一番うらやましい事ですが、そう云う生活をまのあたりに接する事が出来た事は大きな収穫でした。
 ここで両先生の事をお話し致しましょう。ワナウゼック先生は今は退職なさいましたが、当時ウィーンシンフォニカの首席フルート奏者で、いつも松やにのにおいのする香水をつけていました。これが何の香水か未だに分かりませんが、大きな体で力いっぱい吹く音は、まるでトランペットかと思われる様な音がしていました。御自分でも作曲したりしていましたが、ほとんどの曲はピアノ伴奏をつけながらレッスンをして下さいました。音楽を大きくつかんで作り上げる事が非常に見事で、教えられる事は大変多かったと思っています。
 レズニチェック先生。この方の写真は外苑のレッスン室に額に入れてかざってありますから、お気付きの方も多いと思いますが、一見、ケンタッキーフライドチキンの看板の白髪のおじさんに良く似ていて、東京の街を歩いていて出くわすと、そうそう、手紙を書かなくちゃなんて思ったりしてしまいます。
 現在ウィーンフィルとアカデミーの両方にお忙しい毎日を送っていらっしゃいますが、来年はウィーンフィルを退職なさるとの事。よく先生を評して「フュル ヒテバル・ネット」と云う言葉を聞きました。これは「おそろしい程やさしい」と云う意味なのですが全くその通りなんです。この先生に師事して「教育とはこう云う事なのか」と思い知らされた事が数多くあります。
 こんな事がありました。練習したいある曲をさがしていたのですが、どこにも売っていなくてどうしても手に入らなかったので先生に相談した時でした。話を聞き終わって、だまってハンカチを取り出したのです。見ているとハンカチをクルッとしばって小さなコブを作ったのです。そして「これで明日君に楽譜を持ってきて上げられる」と云われ、「こうすれば忘れないんだよ」とおっしゃって、翌日ニコニコし乍ら手渡して下さった時はうれしかったなあ。
 レッスンでも時間がないからと云って「ハイ次ッ」などとは決しておっしゃらないのです。こちらがもうかんべんして下さいと云う位までしぼられます。リピート記号は省略する事は先生の前ではゆるされません。「二番かっこへ」なんてセリフは決して飛び出さないのです。
 一つ書き加えさせていただきますが、日本人の感覚ではレッスン中に物を食べるなんてお行儀が悪いと思われがちですが、この先生がミルク片手にサンドイッチをつまみながらやっていたのです。生徒も待っている間にリンゴなどかじったりしていましたが、その内なんとなく当たり前みたいに見えて来てしまい、そのくせが未だぬけ切らずに、時々、僕も外苑のレッスン室でやっておりますが、これは少しでもこの先生に近づきたいと云うけなげな気持ちから発している事とお察しください。
 ある日、この先生のお宅の楽譜棚を拝見させていただき、絶版になっている曲を沢山見つけ、帰国する前一週間位、これをフィルムにおさめる仕事も一緒にして下さったりしました。これはその内、シンフォニアから出版される予定です。
 とにかく音楽に対して熱心な方でした。そして教育というものは決してしかったりおこったりしてするものではないと云う事も学びました。
 そんな訳で一年半のウィーン滞在も音楽に明け暮れしてしまい、両方の学校のディプロムをもらい、日本に帰り、再びもとの社会人にもどった次第なのです。
 観光旅行で名所旧跡を見た印象よりも、チェコの国境で自由主義国からの旅行者にお金をねだる子供達、デンマークの小さなホテルの裏庭で、たった一人で大きな声で讃美歌を歌っていた牧師さん、ハンガリーの国境の税関吏のつめたい目、ウィーンの公園ですれちがった職人の口ずさんでいたワルツのメロディ。
 ハーケンクロイツ(卐)の模様のカーテンのかかっていたペンション、公園で日なたぼっこをしている老人達、その他、とるに足りない多くの事が思い出されたりします。
 過ぎ去った過去の時代に体で感じた事、その時はなんでもなく見過ごしてしまったものが、現在自然とその意味が分かったり、無意識に見たり聴いたりした事が、自分の中で蓄積され、それが肥料となり、現在の自分を成長させているのではないかと信じたいのです。
 ハタと手を打って「あゝ、そう云う事だったのか」と思う事こそ、過去が過去にとどまらず、それが現在の自分をも押し拡げ、豊かな人格が形成されるのではないでしょうか。

 

     贋作 いじわるばあさん              松沢久子

           設問
           住所

 

                              亀沢広嗣

前略 
 皆々様には日頃より何の因果か御健勝の呈を拝し、小生心よりお祝い申し上げます。
 さて小生、昨年暮れより夜間の診療を帰宅後始めましたところ 患者は喜び庭かけまわり 痛みをこらえて丸くなり 忙中燗はあれども閑はなく 笛吹くこともままならず 師匠の命とはいうものの皆様の高覧に供するだけの名文を書くもはずかし おこがまし かくなる上は皆様の 上下合わせて32本 ものをかんだり くだいたり えーい!一そうめんどうだ 一本一本抜いて差し上げるをせめてものおわびのしるしと思えども あの世に送って青山のインスティテュートに閑古鳥 鳴いてはかなわずお師匠様も食うに困った身一つ 結局おわびもとりやめて まゝよこのままだらだらと 文を綴って絹の糸 かいこが桑をかむような ぐぢゃらぐぢゃらの乱筆で あとは野となれ山となれ そしてしまいにごまかして ここらで終わりといたします。

 

                              吉川しな子

 皆様 お元気でいらっしゃいますか。
 また気の進まない作文の季節がやってきました。
 何を書こうか見わたしてみても これと言った事もありませんので、私のフィアンセについて少しだけ書こうと思います。三月に結婚するのですけれど(今は何月かしら)私の場合はまったく ほれられ結婚なのです。
 彼はひどく無口な人で 私が何を言っても「うん」「そう」そんな単語しか返ってきません。それで 私が時たま おとなしくしていると とても気になるらしいのです。(とても勝手なのです。ようするに)
 彼はギターを弾きます。大学時代はギターばかり弾いていた様です。私なんかよりずっと ずっと音楽を愛している様で そんな所はとても尊敬しています。
 彼は専攻が車のキャブレーターですので とても車きちがいです。デートの時も 私のいる事をすっかり忘れてガタガタ道ばかり選んで ラリーの練習をしています いつも。
私はきれいな音楽の流れているレストランで優雅な食事を夢みているのですけれど ひどい違いでしょう。
ガタガタ道のあとは きっと札幌ラーメンで終わるのです(でも 箱根のラーメンはとてもとてもおいしいのですけれど)
 けんかもよくします。私が頭にきていても ちっともとりなそうとしてくれないでしらんぷりなのです。それでよけい頭にきてしまうのです。
 私達二人を見る人は だれでもきっと私の方が強そうに見るのですけれど 中味はまるで逆なのです。みんなみる目がてんでないのです。
 ほんの少しだけでしたけれど こんな私達です。
 彼はフルートの勉強を心から(きっとそうだと思いますけれど)すすめてくれていますので これからも皆様の仲間としてよろしくお願いしたいと思います。皆様の中においては いつまでも独身でいようと思いますので 皆様も そのおつもりで。

 

                              日景 都
 私がフルートを始めてから約4年になります。私は今14才ですから 10才の時から吹いているわけです。フルートを始めた動機は ある日フルートというものを耳にし、その音の美しさに感動したことです。その時から 私はフルートをやりたいと思ったのです。そしてやっと習わせてもらったのが、小学校4年生の9月23日です。でも、いざ自分でフルートを手にして吹いてみると なかなかいい音はでません。あの日 始めて耳にして時のような、あの美しい音はなかなか出せません。また自分の好きな音、心のすみずみまで感じる音も私にはなかなか出すことができません。(今でもなお)
 でもこのごろは、たまに自分の好きな音も出るようになりました。その好きな音でフルートを吹いている時の気分は、何よりもすばらしく感じられます。そしてその音で好きな曲をピアノといっしょに吹いたら、いっそう心に感じるものが大きくひびいて来ます。
 私が30才になっても 50才になってもこんな気持ちでフルートが吹けたらすばらしいことだと思います。

 

     占い特集
        ――――― 徳植氏、今度はおおいに占う。  徳植俊之

 全く、この世の中どこまで悪化するのかわかりませんが、みなさんも何かとイライラの多い毎日と思います。
 そこで、このぼくがこれから出題する問いに答えて、自分の将来を占ってみてください。

  1. もしも、今大地震がおきたら あなたはどうしますか。

㋑フルートの練習をする(せめて死ぬ前だけでも練習しなきゃ)
㋺机の下にもぐって「マンガ」を読む。
㋩冷蔵庫の中みを全部たべる。(つぶれたらもったいないから?)
㊁がむしゃらに外に飛び出す。
㋭火葬場の予約をとる。(あんた、旅行に行くんじゃないんだよ。)

  1. もしも、あなたの家が大風でとばされたら どうしますか。

㋑隣の家をしっけいする。
㋺家を追いかける。
㋩新しい家を建てる。
㊁ホテルぐらしをする。
㋭家につかまって、世界旅行を夢見る。

  1. もしも、 あなたの目の前に雷がおちたらどうしますか。

㋑へそをかくす。又は、へそを手でおさえる。
㋺どうかしたの?(ポケーッと見ている。)
㋩捕虫網を持ってきて、カミナリの子がいないか さがす。
㊁その場から逃げる。
㋭へそがあるかないか調べる。

  1. 三木さんは どんな人だと思いますか。

㋑あの― 三木って森ですか?
㋺三木?だれその人。
㋩三木さんね―。う―ん。そうだね―。わかんない。
㊁ありゃあ、えらい人よ。きみ。
㋭あたし大―好き。ブロマイドも持っているわ。

  1. あなたが 飼いたいと思っている動物は?

㋑ガラアラヘビ
㋺スカンク
㋩座敷用ライオン(エプロンおばさん参照)
㊁アルマジロ
㋭ミジンコ

  1. あなたが 今一番やりたいことは。

㋑フルートを吹く。(これうそ)
㋺アルキメデスに弟子入りする。
㋩おいしものを たくさん食べる。
㊁バスのスチュワーデス。(そんなのあったけ?)
㋭石原先生にフルートを教える。(できないことほど、やりたいものです)

  1. あなたがなりたい職業。あるいはなりたかった職業。

㋑歌手(ラジオ専門。ラジオなら顔がうつらないから。)
㋺学校の先生(生徒をなぐれるから。でも今はなぐられる時代だって。ほんと。)
㋩プロ野球の選手(プロの玉ひろいってあったかな?)
㊁技術関係。(こわす専門)
㋭石原先生の秘書(しつっこいね。)

  1. 新聞はどこから読みますか。

㋑マンガ
㋺三面記事
㋩テレビ表
㊁政治・経済(これ、キチガイ)
㋭広告
さて、これで問は終わりです。

採点表(数字が点数)

 

問1

問2

問3

問4

問5

問6

問7

問8

さあ、あなたは何点ですか。

32~40点の人―――キチガイ型、ユーモア型
   あなたにとって、この一年間は、実に楽しい一年になるでしょう。
24~31点の人―――ややキチガイ型
   あなたは、うまくすれば楽しい一年になるでしょう。
16~23点の人―――天気予報型
   あなたの点数は中途半ぱで、とても予想しにくいのです。あなたの生活も中途半ぱにならないように。あたるか、あたらないかわからないので、天気予報型です。
8~15点の人―――くそまじめ型
  あなたは、もっとユーモアをもちましょう。

これで、占いは終わりです。でも、この占いを最後まで一生懸命やった人、あなたは相当悩んでいますね。特に、8~15点の人。あんまり悩まないで下さい。適当にやった人、それが、普通です。結果だけ見た人。少しずるい人です。
 では、皆さん、おやすみなさい。

 

    “私にとってフルートがなくてはならないわけ”    藤村悦子

 やっと今日も無事試験が終わり、やれやれという所です。早くこの原稿を書いてしまわなければ!何をかくそう今日は1月31日なのです。
 昨年の5月から再びフルートを習い始めて、大学の一応オーケストラと名のついているクラブで吹いているのですが、今、フルートを吹くのが本当に楽しいという感じです。練習しないで外苑ビルに行く時は少々心苦しい時もありますけれど。
 真の友情は逆境に立たされて時に証明されると言いますが、そういった意味では、フルートは私にとって真の友達なのです。はたからみれば平々凡々とした私の人生かもしれませんが、当の本人にしてみれば波乱にとんだ毎日であって、この世のヒロインのような思いで毎日をひたすら生きているのです。(笑ったのは誰ですか?)絶望感に打ちのめされたり、孤独感に苛まされたり、又ある時は自信喪失状態に陥ったり。でもそういう時に限って無性にフルートが吹きたくなって、吹いているうちに気にくわなかった事など、しばし忘れてしまうのです。私っていう人は、とってもしあわせ(・・・・)な人だと自らそう思っています。
 そんな訳で、フルートは私にとってなくてはならないものなのです。

 

     ばかばかしいお話                 長沼明久

 ぼくの入っている大学のオーケストラの部室には、一冊のノートが置いてある。表紙には、大きく「何でも帳」と書いてあり、その名の通り、部員がヒマな時、何でも書いてよいノートなのである。これを一通り読むと我々の生活などだがいたいわかるのであるが、今日はパッとノートを開いたページの話を紹介してみよう。(以下、かな使いなどは原文のまま)
 10/14 きょうは試験休み後、初の授業の日であった。久しぶりに朝8時31分におきて、パンをきのうの晩食ってしまっていたのでコーヒーだけをのみ、生協でパンと牛乳を食べて飲むのを楽しみにしながら、9時4分の東京行きにのった。さいわい何ごともおこらずに、おちゃの水につくと、バスがとまってぼくを待っている。みんなおくれまいと走っていくが、なーに、おれがのるまで走るものかとゆうゆうあるいていくとやはりのれた。(中略)
バスをおりようとすると平木氏がフメンを半分におってもってそこにすわっている。あしたからシケンできょうが最後の授業だそうである。ちょっとはやいので、ぼくはパンを食べた。平木氏は部室だれかいるかなといいつつ別れた。(中略)平木氏がだれもいないといいつつやってきてすわった。こまば祭なにかやるの。ブラームスをやるのです。などという会話をかわして、さあいくかと二人で入口のところまでいくと、ぼくの友だちがニタニタしながらでてきて、14,15,16日は教授が学会に出るため休みだという。ぐゎーん。といいつつ部室にかえって、いったいきょうはなにをしにきたのかと頭にきているし、平木氏もぐゎーんといいつつかえってきて、教室へいったらだれもいなかったそうである。これはぜったいなんでも帳にかくべきだと意見が一致してかきはじめると、なかなかおわらず10時44分になってしまった。しかしひまだ。   ハザマ

と、いうような話がたくさん書いてある。とにかく日頃の東大生というイメージとは全く違う。ちなみにこのハザマ君は東京大学理学部数学科の学生なのである。
 この種の人間がレッスンに来ている人の中に多いならば、青山のレッスン場にも「何でも帳」を置いたらおもしろいのではないでしょうか。
 今回は話の中味を他人の原稿からとったので1時間11分で書けた。今、1月30日午後10時18分。1月31日の消印有効だそうだから、すべりこみセーフ。
 目下、「笛吹きたち」の原稿、3年連続郵送の記録更新中です。ではまた来年。

 

                              小森谷典代

 ほんのひと昔前、わたしの家の近くに原っぱがあったんです。とても広くって、暑い夏なんて私の大好きなひまわりが何本も何本も咲いたもんでした。あの頃よく遊んだ連中も、みんな一人立ちし始めて、前の家のヤッチャンなんて、今はどこかの切符切りのお兄さん。そして原っぱは何回も姿を変えて、今では大きなアパートがでんと腰をおろしていたんです。なぜにこんな事を書いちゃったんでしょう。そう、結局何も書くことがなかったのと、前の家からどこかの吹奏楽団のレコードが流れてきて、彼、つまりヤッチャンの事を思い出してしまったんですよ。いいかげん年をとったと思うのです。昔をなつかしむなんて。私、まだ十八なのに。

 

     元旦の計                     山田和子

 「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」
 「十年は一日の如し」
 「月日は百代の過客」
 「光陰矢の如し・・・・(もっとも、これは工員さんが朝寝坊をして遅刻しそうなので、矢の様に飛んでゆくという意味だといふ人もいるが)、一寸考えても、月日のたつのは早いものだといふ格言が、この様にポンポン飛び出して来る位ですから、頭の方はまあ、普通のレベルじゃないのと思っているんですが何故か、フルートはビリッ子ビリッ子の劣等生、始めて手にしてから丁度二年になるのに、この頃はますますスカスカの音しか出ないのです。
 先生が一寸ハンサムなので、いつもあがってしまって、うちで練習している時の50%の出来なんだという事は本当に本当なんですが、それにしても驚く程、指の動きはノロマだし、テンポ音痴でハスキーで、もうもう余りにも絶望的なので、今年はやめてしまおうかとさえ、なやんだのですが、新年早々の練習日に先生から「練習不足です。せめて一日一吹き十分間」と諭されて、もう一年がんばってみようと決心した訳なのです。
 そもそも私がフルートに憧れていたのは○十年前からの事で、でもその頃は時代の影響もあって自分で吹いてみよう等とは考えてもなく、只その甘いロマンチックな音色に、うっとり(こういうのを恍惚の人というのでしょう、本来の意味で・・・・)聞き惚れていただけでした。
 十年ほど前に、加藤恕彦の「       」を読み、山とこの楽器に対する憧れは益々強くなり、山の方は○に夏山、冬はスキーとある程度はこなして、相当の楽しみも味わっておりましたが、フルートはどうもネー この年して今更、ドレミファ・・などと、おお恥づかしいなんて思うのが先にたって、どうしようか、どうしようかと迷ってる中に、十年程たってしまい、この期に及んで「あー、せめて十年前に決心して始めていれば、今頃は少しは・・・」と後悔のほぞをかんでいるのです。でも、かの芭蕉翁でさえ、思い立ってから何年も○○してのちにやっと「奥の細道」への旅に出たという事ですから、まあ私もあきらめずに、のんびりやっていきましょうというのが、怠け者のわたしの元旦の計といふ訳です。

 

     ポケットいっぱいのしあわせ            島田幸子

 正月の浮かれた風は、もうどこかへ吹き飛んで、東京の町中は、カラカラの寒さに包まれています。
 似たように、とりすました人々が、肩をこわばらせながら急ぎ足で駅に向かっています。
 ホームには、同じような無表情の
人たちが他人と視線の合うことを
避けながら、ボンヤリとアナウンスを
聞いています。いくら寒いとは言って
も、車内は暖かい。どんより濁った、
なまあたたかい空気は、いつも変わりません。
 コートのポケットに、手をつっこんで、
いると、じわじわ汗が出ることもあります。
 ポケットの中の手は、もちろんポカポカです。
『駅を出て、もし・・・
 もしも、お出向かえの人がいて・・・
 そして、その手が
 冷たくかじかんでいたら・・・
 ポカポカのこの手で
  すっぽり包んであげましょう。
 心の中の 小さな暖炉に
  今 まきがくべられます
 どうですか?
 このあたたかさ 伝わりましたか?
 ポケットいっぱいに
  両手いっぱいに
 あふれるほどの  しあわせです』

こんなことを考えながら、山手線を乗りかえます。
 今日は、いつもより寒いみたいです。駅を出てみたら、
ポケットの中の手も、冷えてしまいました。

 

     フルート非上達法                 小島邦雄

 最近、私達の耳にもリコーダーが多く聞けるようになってきました。ルネッサンス時代からバロック時代にかけて、盛んに使われた楽器なのですが、演奏や合奏の形態がだんだん大きくなるにしたがって、横笛(フルート・トラベルソー)に替ってしまい、とうとう今から約二百年前からは、ほとんど見捨てられていました。
 約五十年程前にヨーロッパで再発見されてから昔の楽器を積極的に探したり、有名な楽器をコピーしたり改良を加えながら、今日のようにまた盛んに使われるようになりました。そんな訳で、テレマン・バッハ・ヘンデルの時代の作曲家達は、リコーダーの為の曲を大変多く残してくれましたので、テレマンの組曲、ソナタ、バッハのブランデンブルグ、ヘンデルのソナタ等ほとんどがリコーダーで吹く事ができます。
 日本には、安価で優秀な楽器がありますし、楽譜も数多く出版されています。フルートだけでなく、たまにそういう曲をオリジナルのリコーダーで吹いてみるのも面白いものですよ。是非一度おためしを。
 仕事の関係でリコーダーを人にすすめたりするのですが、自分でも楽器を集めたり、吹いたり、ながめたりするのが好きなものですから、練習をしなければいけない日曜日にもフルートの他にリコーダーやその他いろいろな楽器をいたずらして一日を過ごしてしまい、そんな訳でいつまでたってもフルートが上達しないのです。
 何年たっても石原教室の不良弟子のようで心苦しいのですが、また一年、同じようになりそうな気がします。

 

                              越野昌芳

 石原先生の所へかようようになって、8か月あまりたちました。先日、先生に昨年の「笛吹きたち」を見せられ、このような文集を毎年作っているので、私も何か書いてくるように言われ、驚きと共に、近年感じたことのなかった、あの小・中学校の頃、作文や読書感想文の宿題を出された時の「いやーな」感情が心をよぎったのです。なにせ作文なんてのは大きらいだった私ですから。でもこの頃感じている事を一言。
 音楽の演奏は話しをすることと似て、その演奏者の人間が、もろにでてしまうものですね。最近そんな事を強く感じました。部室でクラブの仲間が練習しているのを聞いていると、その人の持っているイメージとどこか共通したもののある演奏だなと感じます。
 先日私は、ある友人に私の演奏を通して感じることを率直に言われ、それが私自身の欠点とまったくいっしょであることに驚き、かつ恐ろしくなってきました。
 それからというもの、人のいる所で曲を練習するのが何となくこわく感じられるようになりました。
 基礎練習やエチュードならまだしも、ある感情を表現した曲を人のいる所で練習するということはその曲を鏡として、自分の性格が写し出されるような感じがして、こわいのです。
 自分のやっている演奏を、聞く人が聞けば、自分を見すかしているように思えるのです。これはテクニック以前の問題でしょう。技術的にうまくとも、つめたい人はつめたい演奏をするし、テクニックがなくともあたたかい人は、あたたかい演奏をします。
 このことと同じ次元で他人に感動を呼び起こす演奏ができたなら、つまり自然な演奏、音楽が体の中からあふれ出るような演奏ができたなら、何とすばらしいことかと思うのですが、そうなるには、自分自身がもっと成長して、心の広い人間にならなければいけないと思うのです。

 

                              小野澤君予

 私が大学に入ってから、早くももう一年が過ぎてしまいました。なにをかくそう、入っている大学とは国立音大のフルート科というのですから、大驚き!
さて、四苦八苦して入った大学で一年間、私は何をしてきたのでしょう。
実は、何もしていないのです。
あえて、した事といえばただひたすらに(?)大学に通ったということでしょう。
往復5時間、茅ケ崎から果ては玉川上水まで、ただ、ただ通ったのであります。
一時間目の授業は9時からで、6時20分に家を出るのです。最後の授業は4時20分に終わるから、家に帰るのは7時なのです。そのかわり、大学ではヒマでヒマで、出ても出なくてもいいような授業(結局、出席をとらないということ)が、ゴロゴロしてるもので、そんな時は、食堂をのぞいてくださると、ほとんどわたくしはおじゃましておるのです。
エッ?何故フルートを吹かないのかって?
そんな、石原先生みたいなことを言ってもらっちゃこまります。そこが私と皆様と違うところで、たねをあかせば、石原先生の一番手におえない かわゆい愛弟子(まなでし)だからなのです。(こんなことをいってしまってよい(・・)のかしら。もう当分、先生の所にいけないでしょう。)
だけど、家に帰ってから夜はきっとフルートをうんといっぱい吹いているのだろう、と思うでしょう?
これが、又、皆様と私の違うところで、私はテレビを見て、泣いたり、笑ったりしているのです。
しかし、いくら私でもやさしい石原先生のことを考えると、良心がとがめるらしく、寝る前にほんのひと(・・・)吹き(・・)するのが、常となりました。
そうして、何とかかんとか大学のレッスンを受け、室内楽でも(大学では高橋安治先生のクラスなのです。)イベールの作品なんぞを吹いて、今年二月の実技試験では、一人前の音大生ぶって、バッハの○を吹いてしまっているのです。
 これを読んだ方々は、さぞかしイカッ(・・・)て(・)いることでしょう。でも、ご安心ください。
渡辺さんはじめとする他の音大生は寝てもさめても、フルートを吹いているのです。(?)
そうなんです。
私は、みにくいあひるの子。
でも、いつか白鳥になるのではないかと、私は夢見ているのですけれど・・・・・。
まず、むりでしょう。
しかし、私はあと三年間、音大生として大学生活を営み、そして卒業し(たぶん)、その後も、しつこく、しつこく石原先生にへばりついて、銀(ぎん)笛(ぶえ)をならしていたいと思っているのですけど・・・・。
石原先生、いかがなものでしょうかネェ。

 

     教室にて                      横山恵子

 今、教室に十三人の子供が残っている。
 土曜日の放課後は、なんとなく楽しい。

 子供の椅子にしっかり腰をすえて、ほっと、一息つくわたしのそばへ、何人かの子供がチラチラ様子を見に来ては、いたずらをしてまた遊びに帰る。外苑前に出かける前までの一時間を、どう過ごそうかと考える。来週に控えた研究授業の指導案を書こうか。オルガンのまわりで、仲間の伴奏に合わせて歌っている女の子たちといっしょに歌でも歌おうか。後ろで騒いでいる男の子たちと、さっきの続きのボクシングをやろうか。
 その時、突然悪い予感。あまり思い出したくない事が、頭を横切る。
 「あっ!『笛吹きたち』の原稿・・・・・。」急に子供たちに冷たくなる。
 「先生お仕事なんだから、ホラ邪魔しない。邪魔しない。」
 「ねえ、先生がラブレター書いてるよ。」
 「どれどれ!」
 『しまった。逆効果。』
 何人かの子供が寄って来て、大声で読み始める。もう書くどころの騒ぎではない。
 それでも、おなかの調子には勝てないと見え、サッサと帰り出す。ああ、一週間が終わった。肩の力が抜け、身体がずっしり重く感じられる。今週もだいぶ叱ったな。
 「先生!さようなら!」
 「ハイ、さようなら。また、来週ね。」最後の子供たちが帰る。
 冬の日に背中を暖められるのを快く感じながら、時計を見上げるとあと十分。

 四月、初めてこの教室に足を踏み入れた時、寒く冷たい感じを受けた。全く味気のない部屋だった。だが、今はどうだろう。教室のすみずみまで、いろいろな事件が刻み込まれている。
 後ろの壁には全員の書き初めが貼ってある。なるほど、その子らしい字だこと。おや、一つだけ天井に貼ってあるのは、ああ、あれはクラス一のガキ大将。
 横の壁には忘れ物の表。四月からだから、もう九枚目になった。そろそろ二月のを作っておかなくては。どれどれ、一月の忘れ物はどうかな。てっぺんまで行って、また戻って来ている子がいるぞ。しょうがないなあ。ちっとも減らないんだから。
 そういえば、あの犬はどうしたろう。
 三学期も始まって間もない頃だった。音楽室に、一匹の白い子犬がいたが、子供たちはみつからないように隠していたらしい。ところが、わたしのピアノの音色に引かれてか、チョロチョロ出て来てしまった。窓の外を、犬の心も凍らせるような雨が、じっとり濡らす日だったが、わたしのひざの上では、子犬がすやすや。ペダルを使うのはよそう。
 次がもう給食だったので、きょう一日だけは、教室に置いていいことにした。楽しい食事を済ませた子犬のおなかはでっぷり。数人の子供が校舎の裏まで行ってくれたが、この寒空ではだめだったらしい。ところが、五時間目。子犬は、教室をうろうろ歩き回った末、六十八の瞳のもとで、両方ともを完了してしまった。確か、あのあたりだと思うが。それでも、子供たちは、
 「だめだね。こんな所でしちゃって。」
 「さっき、ちゃんとしないからよ。」
 「しょうがない犬ね。」などといいながらも、わたしに言われる前に、きれいに始末していた。
 今、この子供たちが四年生になる時、どんな思い出を持っていくのか、わたしにはわからない。けれど、教師になって十か月目のわたしにとって、この子供たちは、様々な物を投げかけてくれ、喜ばし、励ましてくれた、お手本なのだ。健やかに育ってほしい。

 

      <編集後記>
 『ヨッ!お疲れさん!!(何かのCMであったけ、これ)みんな頑張ったね。』
 『そうよ、わたしなんか会社の仕事サボって書いたわ。(カットのこと)一度部長に見つかってえらい目に会っちゃって・・・・・』
 『ふうん。(うなずく)でもその苦労はちゃんと生きているよ、どれも内容とピッタリだもの。どうみんな、カット賞っていうの作ったら?』
 『それもいいけど・・・精神的に賞賛した方がずっといいと思うな。』
 『ハーイ、カット!!みなさんご苦労さまでした。』T.W.


昭和47年3月     初版発行
昭和50年5月     4刊発行

    ―― 笛吹きたち――
著者  石原利矩先生とその門下生
発行所 青山フルートインスティテュート
発行者 笛吹きたち編集委員会
    東京都港区南青山2-23-8
           外苑ビル305

 

  本年度幹事      渡辺、小野沢、藤村、染谷、山田、松沢、鈴木、成瀬、田中(洋)

 打ち込み協力:坂井直子 2013年12月


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