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文集「笛吹きたち」第3号 原稿再録



笛吹きたち 第3号の再録です。。打ち込みは三木恭子さんのご協力を得ました。
今号から目次ができました。打ち込みは縦書きで完成されています。縦書きで読めるよう方法を考えています。もう少しお待ちください。
どうぞお読み下さい。

笛ふきたち 3

始めに                          石原利矩
新入生                          細野秀子
ひとりごと                        島田幸子
「De LA SONOLITE」の練習法               伊藤 望
無題                           池辺研一
「花壇」                         成瀬 忠
コンサート                        小島邦雄
私の夢                          小森谷典代
モーツァルト「レクイエム」を聴くために          喜多村立彦
僕の奥さん                        曽我真諭紀
古ぼけた新聞                       染谷洋子
『題名のない作文』                    鈴木淳彦
無題                           松沢久子
無題                           三沢修子
思いつくままに                      長沼明久
御詫び                          喜多村健郎
第二回合宿報告                      近藤康男
夏の思い出「国境の岬にて」                細川泰彦
無題                           田中 豊
冗句                           中沢美津江
「ド・サド・オケサの監督のもとにチャランポラン精神病院の
患者か躁的状態にて書き上げた医者の基本理念について」   亀沢広嗣
マルセル・モイーズに会いに行った日            石井孝治
無題                           山田和子
無題                           田宮治雄
年令                           藤澤冨美子
音色について                       上野昌彦
アルバムについて                     下山孝子
ある時思ったこと                     竹部直子
我がフルートの履歴書                   石原利矩
おさらい会の或るたのしみ                 南谷周三郎
或る日見たもの                      荒井忠一
一月二十九日午前一時半                  野本実
幻の優勝旗                        根岸咲子
京都にて                         吉川しな子
フルートを始めてから ―徳植氏、おおいに語る       徳植俊之
編集後記

 

    初めに                                    石原利矩

〆切日、一月末日(注・〆切りに間に合わなかった人は、優先的に次号の幹事になっていただきます!)
この注のおかげか、今年は期日内に間に合った人二十三名、間に合わなかった人七名、原稿を書かない人若干名
毎号、原稿集めで頭を悩ませます。しかしこれで三号目の「笛吹きたち」の発刊にこぎつけました。
書いてもらう側と書かされる側の攻防戦も、だいぶのみ込んで来た様ですので、今から宣言しておきますが、
皆様来年も覚悟していてくださいよ。今回の幹事は合宿で決定した藤沢さん、吉川さん、染谷さんの他、野本君
鈴木君、田中豊君に加わって頂き、田中洋子さんにカットをお願いしました。
毎号創意工夫をこらしながら、力を合わせて作り上げて下さる幹事の皆様、ご苦労様です。
 さて、去年一年を振り返ってみますと、少しずつではありますが、我々のインスティテュートも充実しながら育っていってくれている様です。音楽もさる事ながら、フルートと言う一つの楽器を通して、話し合える人が出来た人もある事でしょう。入会して間もない人もありますが、だんだん友達が増える事を願っています。その内
カップル誕生なんて事にもなるかもしれず、そうしたら僕が仲人をさせてもらいます。その点も覚悟しておいて下さい。
 アウシュヴィッツの囚人さながらの去年の合宿も今や楽しい思い出になってしまいました。色々な職業、様々な年齢の人たちが1つの事を通して心が通い合うなんて、素晴らしい事ではないでしょうか。         今年も合宿を予定しています。大勢の出席を望んでいます。
 さて、今年も発表会が間近になりました。毎年レベルが上がっていく様子を聴かせてもらうのも一つの大きな楽しみになりました。
 一人の人間には何本かの柱があり、その支えに乗っかって生きているものだと考えていますが、僕にとっては
インスティテュートと言う柱が、毎年、太くがっちりしていく様に思われます。
皆様にとってもそうなって下さる事を祈っています。

 

     新入生                                   細野秀子

 今日は一月三十日です。昨日、レッスンに行った時、あの箱を見て「ハッ!」と原稿のことを思い出したのです。先生が、一月三十一日の消印有効とおっしゃったので、あわてて書いています。
 ところで、一体何を書いたらいいのやら・・・大変困っています。
コチコチコチ・・・時計とにらめっこです。さっきから、時計と原稿用紙の上を目が行ったり来たり・・・
一分経過・・・五分経過・・・時計さんは、気持よさそうに、チックタックチックタックと同じリズムで動いています。それに比べ私の手は、ヨイショ・・コラショ・・ドッコイショ・・と休符だらけのリズムです。
 さて、本当に困ってしまいました。どんどん時間がたっちゃうんです。時計さん、そんなに動いてばかりいると疲れますよ。少し休んだらいかがですか?・・・・・
 とにかくこれを早く書いてしまわなければならないのです。私は、ここで「創造性の音楽」について書いてみようと思います。大学の音楽教材研究の授業で得たことですが・・・一回目の授業の時、先生がピアノで曲を弾きその曲に浮かぶイメージを各自作るという教材がありました。その曲は、明るく楽しそうな曲でしたので、私は、森の中で子供たちが歌を歌いながら、愉快に踊っている情景を連想しました。そこには、動物(おさるや、リスや、くまさん達)もいます。そして、美味しそうな食べものも・・・どんどん私の創造は広がっていきます。
ピアノが鳴り止んだ時、私達は現実に戻りました。私にとって、こういう授業は、今まで全く経験したことが
ありませんでしたので、ただビックリしていただけでした。私は、自分の創造したものを、森のお祭りとつけました。各自それぞれ違うので、おさかなの運動会や、汽車の旅など、いろいろあり、とても面白いものでした。
 次に、今のイメージを誰か一人黒板に、絵を描かせ、ピアノの曲に合わせて言葉をつけていく事になりました。
どの顔も、皆楽しそうです。私は、これが音楽だと思いました。同じ歌を何度も何度も歌ったり、「この指揮棒に合わせてちゃんと歌いなさい」なんていう授業は、子供達にとって楽しいはずの音楽を全くつまらないものに
してしまうと思います。技術的な事、音楽的な事を教えるのも大事ですがその前に、子供達が楽しいと感じる音楽的雰囲気を作る事がもっと大事なように思いました。子供達がおなかいっぱい歌えて、いろんな曲を自由に素創作できて、いろんな楽器をやってみたいというおうな音楽の授業を、私はやってみたいと思います。
 何かだらだらと書いてまとまっていませんが、この辺で終わりにしたいと思います。
(フゥーやっと終わった・・・)

 

      ひとりごと                                島田幸子

 今、私は、マフラーを編んでいます。編みながら、ボソボソ独り言を書きとめる事にします。
 最近、寒さがますますキビシクなってきたので、まぁ、マフラーの一つくらいほしいもの・・・と考えまして
編み始めだしたのですが、これがなかなか長くならなくて・・・(もし、他人にプレゼントするマフラーであったら、もっとピッチがあがるのに・・・)
 さて、私の通う高校のクラスメートたちの中(女子)で、このごろ、せっせと何やら編み物をしている人が
ずいぶん増えて来ました。「なぜか?」私は考えました。ああ、そうでした。あの二月十四日・・・人の言う、
バレンタインの日が、近づきつつあるのです。このごろの寒さも影響して、プレゼントは、だいたい手編みなど
暖かいものと考えるのは、皆同じようです。
私はあの日ほどつまらない日はないと思っています。でも人は人です。気にしないのです。
 でも、こんなことを言っても「もう一つ別に、マフラーを編み始めようかな?」などと、思ったりもしてしまうのです。

 

     「DE LA SONOLITE」の練習法                         伊藤 望

 ソノリテから美しい音色を得ようとしてはいけない。この教則本は全音域における平均的な響きと正確な音程を得るための教本である。
 第一部の練習をするとき決して良い音色を得ようとして練習してはいけない。もし、そうすると君は、音を唇で作ろうとしてしまうということは唇に必要以上な力を入れたり、極端に両側に引いたりして、出てくる空気を唇で調節しようとするので、フルート本来の響きを得ることがむずかしくなるのである。
 私は、唇に力が入っても息の量や速度を唇が調節しなければ、かまわないと思う。
 フルートという楽器は、fpの変化を出す時、息の速度は変えず息の量によってその変化を表すので
(息の速度を変化させると音程が変わってしまう)fの時は、息口を大きくあけ、pの時はその穴を小さくする。
空気が必要量腹から出た時それに必要な息口をあけてさえいれば唇にいくら力がかかっても良いわけである。
ただ、疲れることは当然であるが。息の量を調節するのは唇ではなく腹であることを忘れてはならない。
 確かに最初はあまりうまく響かないので、つい唇に頼りがちになるが、その時に前に述べたとおりのことを
守って気長に練習していけばより良い響きを得る事ができるであろう。
雑音が入っても良いと私は思う。その雑音をのりこえて最大限に楽器を響かせることを考えるべきである。
 低音のG-Gis-A-Ais-H-C-Cis ここでは、高い音に行くにしたがって(O)発音の時の顎の形に次第に開いて行く。顎を無理に後ろへ引こうとしたりしない。ただ顎を開くということは、顎をひらくことにより、口の中の容積が大きくなり肺から出た空気が口の中の空気の塊にぶつかってから出て行くので速度が弱められることと顎を開くと言うことは、結局顎を後ろに引くことになるので音程が上ずることを防ぐことになる。
 次に、低音のFis-F-E-Dis-D-Cis-C  ここでは、逆に顎を閉めていく。ここでも、顎を無理に前に出したりしてはいけない。顎を閉じることにより、肺からの空気が直接口から出るので空気の速度が速くなり、又顎を次第に閉じれば、結局顎は次第に前に出されることになるので音程が下がることを防ぐのである。

    
    無題                                     池辺研一

 〈この世知辛い世の中 たまにはこんな詩はいかがですか〉

  まっくらな闇夜で二人
    三本のマッチをすろう

  一本目 
    それはあなたのくちびるをみるために
 
  二本目
    それはあなたの目をみるために

  三本目
    それはあなたの顔をみるために
  
  そして残りの闇は
    あなたの顔を想いだすために

   
    「花壇」                                   成瀬 忠

 最近、国電に乗ると、たいがいドアの真上あたりに、旅を勧めるポスターが目につく。それは二、三枚焼きで
北陸だ山陰だやれ信濃路だと美しいカラー写真をふんだんに使ったあかぬけしたもので、いかにも若い女性を
ひきつけそうな出来の良いものが多い。
 あまり旅行などしない方だが、汽車の窓辺によりかかり、ぼんやりと移り変わる外の景色をながめるのは、旅の楽しさの一つである。遠くの山々の頂きや、その上の白い雲などが少しずつ角度が変わる毎にその形も変化する。一面に実った稲田の中で農夫が稲刈りをしている風景などもよく見かけるものである。
 そのようないろいろな景色をながめているうちに、一瞬のうちに通り過ぎてしまうような小さな駅がよくある。
鈍行しか停まらないような片田舎の駅には、人影もないホームの一角に花壇がよく見うけられる。
そこにはカンナやダリアとかコスモスといった花々がひっそりと咲いている。その上を赤とんぼが羽を休めて
いることもある。夏の日照り続きの中でも、その花壇の上だけは今水をやったばかりのように黒々と潤っている。
そしてこういう花壇のあるホームは、たいがい隅々まで掃除がゆきとどき、タバコのすいがらなども落ちていない。このような駅を通過するとき、私はその名もしれない小さな駅に働く人達の人柄がしのばれ、心温まる思いがするのである。己の仕事に愛情をもって誠実に毎日を送っている、ごく平凡な駅員の生活が想像でき、それが私の心をとられたのであろう。
 旅を終えた後になっても、ときどきその小さな駅の花壇を私は思い出すのである。

  
      コンサート                                 小島邦雄

 東京中にコンサートホールがいくつ有るか、まだ数えた事もありませんが、毎日毎日何かしらのコンサートが
開かれているようです。先日あるオーケストラの演奏会を聴きました。夜七時の開演時間までに客席はやっと
半分程うまり、そのまま増えずにコンサートは終わりました。こう書くと「ハハー、あまり良いオケではないのかな」とお思いでしょうが、なかなか良い演奏でした。又、その入場料がたったの350円。
もちろん都の補助があっての値段ですが、こんなに安くて良い演奏会がシリーズで数回も公演があるのになんともったいない事かと思いました。
 私は今千葉県に住んでおりますが、千葉でも千葉文化会館の主催で100円の入場料でやはり良いコンサートがありました。この晩はさすがに会場が満員になり、最近の物価高の中で100円で一晩が楽しめた事で非常に
満足感をおぼえ、うきうきして帰宅しました。只電力不足で暖房がきかなかったのにはまいりました。
 もう一つのその前日に開かれた学生さんのオーケストラも聴かせてもらいましたが、プロのオケでもあまり多く演奏しない難しい曲をなかなかうまく演奏したので感心して聴きました。(実は約十年前に同じオケを聴き、
ひどい目にあった事がありましたので、今回の演奏会は内心びっくりしました。)
この時も観客が少なくて、もったいないなあと思いましたが学生の一生懸命の姿に非常に感動しました。
 さて、我々の演奏会はもちろん入場無料でもあり、非常になごやかな事ではちょっと他の会場でも思い当りません。一曲出来上がるまで(私は出来上がらず途中で発表してしまう事の方が多いのですが。)
非常に辛いですが、多くの方に聴いてもらい良い演奏会にしたいと心から願っております。
皆さん、たくさんお客様を呼んで我々のフルートを聴いてもらいましょうよ!
 私も少ない時間ですがこれからも頑張って練習をします。

 

      私の夢                                  小森谷典代
  
 私の夢。夢といっても「希望」の方ではありません。あの眠りながら頭の中にひろがってくる奇妙な世界の方なのです。もし、これを読んでいる方の中に「夢判断」を御存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さいませんか?私の夢の意味を。
 ・・・学校に行く途中でした。いつも通っている道を一生懸命歩いていたのです。そしたらいつの間にか海岸に出てしまったのです。そこの海ときたらものすごい色をしていたのです。(注・私の夢はぜいたくにも、常に
カラーなのです)何というか、そうあずき色を少し黒くした感じでしょうか。そして空は灰色。砂浜ときたら、
なだらかになんかなっていません。絶壁なんです。砂の絶壁だなんて想像がつきますか?
私はもうびっくりしてしまいました。すると上の方からコンクリートの箱が降りてきました。私は何だろう?と思い乗ってみました。するとその箱は絶壁の下の方へ降りていくのです。着いた所は広い砂浜。
そこは私が以前行ったことのある函館の浜辺に似ていました。私はその砂浜をどんどん歩いていきました。
するとやっといつもの道、つまり登校する時のあの道に出てきたのです。やっとひと安心。
ただその後、学校へ着いたら教室にチンパンジーがいて、私はそのすばしっこい訪問者を追いかけまわしていました。やっとつかまえたと思ったら目がさめました。
 学校へ行く途中、その夢に出た恐ろしい浜に出るかなと思ったのですが、さすがに夢は夢。歩いていけば学校なのです。そして教室にはチンパンジーなんていなくて、代わりにチンパンジーより手におえない(大人にとって)我らの仲間が大勢いるのです。

 

      ボクの奥さん                             曽我真諭紀

 私の奥さんは、庄ちゃんという名前です。庄ちゃんと私は、同じ下宿に住んでいます。庄ちゃんは、卓球同好会のとなりにオーケストラの部屋があって、何となくオーケストラの人たちも、庄ちゃんの事を知っています。
何となくどころかみんな知っています。なにしろ、私の奥さんだから・・・。
何で庄ちゃんが、私の奥さんかと言うと、私がなにもしないからです。庄ちゃんが料理を始めると、時々そこへ行ってじゃがいもくらいは切ってあげるけど、庄ちゃんを笑わしたり怒らしてばかりいるから、結局は役に立たないのです。お茶も下宿では庄ちゃんが入れてくれるから、庄ちゃんがいない時に、友達が訪ねてくると悲劇なのです。私は「ここでは、お客さんがお茶を入れることになっているんだよ。」って言うだけ。
 ここで、千葉大オケの新聞『醜漢バクロ』を紹介します。
かの悪名高き野本さんが、この編集長をやっているのです。
 『・・・また、キ(文理学部七年生ビオラ科菊池氏のこと)は、ウィーンのレズニチェック教授の孫でしたるボク(フルート科曽我嬢)に、レズニチェックがどうの、ボクの音がどうのと近づき、ボクの妻君たる庄ちゃん(卓球同好会のカワユイカワユイ女の子。ボクと同棲中。)を得んと、血まなこになっている・・・』
 こんな風にどこでも、私と庄ちゃんは誤解されているのです。庄ちゃんには、だんなさんがいると思われているし、私はいつも男に間違われてばかりいるのです。みんなが、曽我クンと呼ぶから。女の子でも。
それに、このごろOBの人も、また後輩でも私のこと「ボク」と呼ぶのです。おかげで、何かの申込み書の性別の所に○印をつける時は、いつもハタと自分が男か女か考えねばならなくなったのです。どうしても男の方へ○をつけそうになって・・・。
 新入生が、クラブに入って来た時の悲劇(喜劇?)は、『あの人はねぇ、同棲しているんだよ。』って、先輩たちから言われること。庄ちゃんなんか特にひどい。
卓球同好会の人は、よってたかって、新入生に「庄ちゃんはねぇ、曽我クンっていうオーケストラの人と同棲しているんだよ。曽我クンはねぇ・・・。」ってやり出すから、大学に入ったばかりの一年生は、目を白黒させちゃって・・・。私はいいよ。そんなことにかまわず、卓球同好会の横でフルート吹いているだけだから。
だけど、オーケストラの新入生の中にも、やられた人がいるんだよ。
「曽我クンっていう人がフルートにいるけどその人には奥さんいるんだよ・・・。」って。みんな勝手に、『曽我クン』のこと想像したんだろうなぁ。この頃、別れさせようとする動きが目立ってきているけど、ナンノナンノ
ずっといっしょだよ。でも、誤解しないでくださいよ。庄ちゃんと私は、同じ下宿で、おもしろおかしく暮らしているのです。いろんなドジをくり返しながら・・・。                      おわり

      
      古ぼけた新聞                             染谷洋子 
 
 私の知人に心のたからをもっている人がいます。今年、その人は教師になります。
ひとつの理想と情熱を持っています。
 そして、それをもたせてくれているものがあります。もう十数年たっているであろう五、六十枚の黄ばんだ
わら半紙で、とめ金も茶色くさびている小学校二年間の学級新聞です。それは、知人の思い出と一緒に情熱を
わきたてている大切なものです。
この古ぼけた新聞は、少しもきどらず、素朴で暖かさを感じさせ、みんながこれをとおして精一杯生きてゐたことが伝わってくるものです。話を聞きながら、私にはその一つ一つがうなずけます。
 『どうというものではないけれど、何かの参考になれば…』という好意で、今、私の手元にあります。
 別れてから、その気持ちの嬉しさと、なにがあってもこれだけは知人のもとに戻るまで安心できないことを
一人真面目に思いながら、帰途につきました。
 心の中に残っている思い出はたからであると感じます。
十数年、棚にしまわれていたとしても、心の中で生きているものはいくつもないだろうに。
 私には、何があるのかおもってみるがあまりに多くのものが浮かびすぎます。
なんと、欲ばりなのか。心の貧しい女である。

 

     『題名のない作文』                           鈴木淳彦

 一年というものは短いもので、去年この「笛吹き達」の原稿を出すようにといわれてから、もう一年が過ぎてしまった。文を書くのが大嫌いな私にとっては、この原稿を書くことが、一年間のレッスンを通じて一番の悩みの種である。
 フルートを手にしてから、もうそろそろ七年しかし、いま振り返ってみると、練習らしい練習をしたのはごくわずかで、進歩のなさに我ながらあきれかえる始末。最近練習をしていても、私のフルートは私の意に反した音ばかり出すので、机の角にでもぶつけて折り曲げてしまいたいと思うこともたびたびである。
たまに気が向いて自分の音をテープにとって聞いてみると、あまりのひどさにただ唖然、マイクが悪いのではないかと、疑いたくなるほどである。テープを聞くことは、よい勉強になると、いろいろな演奏家が言っているのを聞くけれども、私の場合、自分のテープを聞くこということは、死刑の宣告を聞いているようなもので、全く聞くに耐えないものである。
 テープを聞くと言えば、私はフルートの曲を聴くと、その音楽を聞くことができなくなってしまうのです。
フルートの独奏曲とか、フルートの入った室内楽を聞くと、その演奏家の音であるとか、音程であるとか、又あそこのパッセージはどのように吹いているとか、そういった技術的なことばかりが聞こえてしまって、肝心の音楽自体を聞くことができないのです。確かに多くの曲の中には、技術を聞かせるための様な曲もありますが、独奏曲にも、音楽的に価値のある曲は多くあるはずです。
 こういったことは、楽器を演奏するものにとっては、仕方のないことなのでしょうか?従って、フルートを練習するときにも、こういった技術的なことを考えて練習する事が多くなってしまうのです。楽器を演奏するということは、あくまで一つの音楽を作る為の手段でしかないはずである。私達の生活の中にもこれと同じように
末端のことにとらわれて本質を見失ってしまうということが、多くあるように思える。

 

      無題                                  松沢久子

 去年の正月に友人から案内状をもらい、或る書道展を観に行った。
『源氏物語 および この時代を基調として』と云うテーマも いや 『書』そのものにも、正直のところ
あまり興味の無い私だった。
作品を鑑賞してゆく中に『静』であるべき書から、実にさわやかなリズムが強く弱く私の心を打ちはじめ
おどろき感動した。新しい発見だった。筆のはこびの勢いが、それを感じさせるのだろうか。
それとも音楽と書には、どこか共通の美が存在するのだろうか。
私は会場の高層ビルのエレベーターを降り、ロビーの片隅にあるティールームで一人お茶を飲みながら考えた。
以前の私だったら、今日の感動は無かったかも知れない。フルートを通して養われた感性が新しい美を発見させたのではないかと。
ともすると、心をおき忘れて技を力とし、それのみに一心になる教師の多い中で『心』を育てることを忘れない先生にお礼を言いたかった。
紅茶を混ぜたスプーンに夕陽がさして、きらりとそのしずくが光った。
      無題                              三沢修子

  初めて手にした時
  二十四個のキイを
  みんなふさぐのかと驚いた
  エチュードが流れていたあの日
  マウスピースの音も出ないで
  鏡の前に立たされて
  落っことしそうに
  指をあてて
  初めに出た音 G
  あれから
  一年七ヶ月とちょっと
  春の日

 

    思いつくままに                           長沼明久

 先日、時計が故障してしまったのです。
修理に出している間一週間は、たまには時計のつきまとわない生活もいいものだろうなどと考え、腕時計のない生活を始めてみたのです。しかし皆さん、東京には時計があふれているのですよ。駅には必ず目立つ所に時計があるし、銀行その他のビルにも必ずといっていい位電気時計などがあるのです。
しかしそれよりももっと驚いたのは、小生がそれにもかかわらず実に不便を感じたということなのです。
 あれだけの時計に囲まれていながら、何もない自分の左腕を思わず見てしまったことが何度あったことか。
何か悲しいですね。別にそれほど時間に追われているわけでもないのに何か気になる。
結局時計の無い生活は一日でダウン。中学の時使っていた古い時計を持ち出すことになってしまいました。

 時計のことでおもうこともう一つ。時計の文字盤をよく見ると、せわしく動いている秒針のすぐ前を何か必死に走っているものがある。時々秒針に追い着かれ、あわててスピードを上げてまた走り出す。
しかし遂に疲れて座り込むと頭の上を秒針がかすめて飛んで行く。ふと後ろを見ると今行ったばかりの秒針が
またすぐ後ろに迫っている。彼はまた立ち上がり必死に走り出す。しかし彼には一周遅れた後悔と迫って来る
針の恐怖心しかない。こんな彼、ちょっと極端かもしれないけれど・・・・。
 小生この原稿を書きながら、もう五回も時計を見てしまっている。案外自分の事かもしれないですね。
しかし、それでも時計は放せない。これが小生の実感なのでーす。

 

    御詫び                               北村健郎

 只今、卒業論文の追い込み中で御座いますので、又々今回もご遠慮申し上げます。
 毎回何か書こうと思っておりますが、いつも試験など多忙な時に重なってしまい、その上筆不精なもので
失礼をいたしております。次回は何か書こうと思っておりますので・・・。

 

  
     第二回合宿報告                           近藤康男
 
 第二回合宿は去年八月十三日~十六日、清里に於いて行われましたが、ここでその総括をしたいと思います。
今回の合宿は、全日程平日(月~木曜)のため、仕事を持っている人には、かなりきつかったようです。
(笛ふき達の約半数は社会人)したがって、今後できるだけ土、日曜を日程に組込むようにもっていかれる方が良いとおもわれます。(特に全日程の参加が無理な人には都合が良いのではないでしょうか)
このため早目に期日、場所を決め、予約すべきでありました。私自身、幹事をしていなかったら、全日程の参加はできなかったと思います。
 時期的には、八月初旬の方が良いという意見もありましたが、このへんは様々であり、何とも言えませんが、
日数的には、もう一日位あった方が良いという意見が多かった。(回収アンケートが五部中、三人が五日派、
長いと言う人はなし)
 私ももう一日あった方が良いと思います。というのは、限られた日数である程度の事をするには、結局時間割が厳しくなるか、何かを割愛しなくてはならないからです。
 次に合宿の内容ですが、今回は演奏会を二部に分け、独奏、合奏を別々の日に行いました。
このため、時間割が厳しくなり、練習時間、自由時間など、不足感を与えたのではないかと思っています。
特に消灯時間が早く、コンパに十分な時間がなかったのが残念でした。
 前回、今回の合宿共演奏会があり、したがって当然楽器を持って行く訳ですが、楽器なしの合宿の方が良いと
言う人もいて、内容的にはまだ問題があるようです。特に公開レッスン形式の演奏会は、本当に良かったか、
今後に問題を残すように思われます。私見を言えば、やはり夏の合宿は、発表会と対をなして、私達の音楽的
交流の場であり、したがって何らかの音楽活動はするべきであると思います。かつ合宿は人間的交流の場である
わけですが、合宿における人間的交流は、発表会その他に比較できない位深いものですから、希望が多ければ、
夏の合宿の他に、楽器を持たない合宿があっても良いのではないかと思います。

 以上簡単ですが、次回の幹事の皆さんに期待して、かたい話はこのへんでやめる事にします。
 先生には、次回も私達のめんどうを良く見てくれることを大いに期待しています。
 また、合宿中いろいろ協力して下さった方々に、深く感謝いたします。

 

    夏の思い出 「国境の岬にて」                      細川泰彦

 さわやかな朝のにおいで目がさめた。もう朝だった。二昼夜も硬い急行の座席で仮眠をしながら、とうとうこんな東の果てまで来てしまったのだ。今、僕は蒸気機関車特有のにおいとリズミカルなドラフトの音の中で広がる風景を見ている。
朝露でキラキラ輝く牧場の中を、まだ静寂の残っている湿原の中を、列車はカーブするたびに色あせた車体を朝日でギラギラと鈍く光らせながら根室へ向かっている。窓から入る風はさすがに冷たい。林と牧場、草原と海岸線、列車は縫うように走る。時おり人影もない小さな小さな駅に停車する以外は、ただ走りに走る。もう堅くなってしまったフランスパンをかじり、隣の人にもらった温かい、本当に温かいお茶をすすりながら、とうとう来たんだ。北海道へ来たんだという実感が胸の奥からこみあげて来た。
 
 正午までは、まだ時間があった。ぼくは日本の最東端、納沙布岬に立っていた。
長く続く岬の先端にこじんまりした真白い燈台が1つ。ただそれだけの岬。それが真白いだけによけい感じられるだ捕の悲劇。しかし丘の上から眺める風景は、国境と云う感情を抜きにして見れば、なかなか素晴らしい。初めて国境に立った感情。それはやはり複雑なものだった。
水平線のかなた、水晶島のかなたからたくさんの漁船が燈台めざしてやって来る。早朝、根室を出港したコンブ漁船が漁を終えて帰って来たのだ。ざっと数えて五十隻ちかくいる。その内の十隻余りが岬をまわって納沙布の入江に入って来た。
コンブだ。黒々と鈍く光ったコンブだ。船は入江の浜に上げられ、荷下ろしが始まった。漁師はたくましい腕でコンブを馬の背中にのせたカゴに放り込む。そしてコンブを背中一杯に積んだ馬を引いて入江の浜から崖の上まで運び、そこで一枚一枚きれいにまっすぐに並べて乾燥させる。大地は何本ものコンブで真っ黒になってしまう。
 そこには北海道の東端、国境の地で働く漁民の生活がある。働いているのは漁師だけではない。その妻も子供達も、みんな短い夏の日を惜しむようにして働いているのだ。そんな中で微笑ましい光景も見られた。空になった馬を子供が下の入江まで引いていき父親にジュースのびんを渡していた。何か、バンザイをしたくなるほどすばらしかった。この様な辺地で真剣に生きている人々がいる。
 こんな所にだって人間愛はあるのだ。都会の殺伐とした中よりも、よっぽどあたたかいものがある。ここでの大自然と人間の共存、とても素晴らしいものである。

 漁を終えてコンブをほし終わった時、岬には霧が出て来た。
音もなく、南の方から近づいて来た霧は、燈台をそのクリーム色のカーテンの中に包み込んだ。本当に音がなかった。
しかし、突然あたりの静寂を破ったものがあった。霧笛だった。ブォーッ、ブォーッ、という悲鳴にも似た音は、SLの汽笛よりも哀愁をおびて、その国境の地に、もの悲しく響いた。これで納沙布岬の漁民の一日は終わるのである。
又明日も限られた夏の日の中で、コンブとの闘いが始まるのだろう。

 今、ぼくは汽車の中、窓からさしこむ夕日が、頬を真紅に染めている。今度は流氷の頃、この国境の燈台を訪れようと心に決め、名物の「花咲がに」をほおばりながら、国境の岬を後にした。
 

 

           無題                                                 田中豊

 最近、世の中不安なことがいっぱいで、公害の浸透は留まる所を知らないし、石油はない何は無いの物不足、そんな中で終末論的風潮が蔓り、やたらと預言者なんぞが持映されております。
 ところで他方、生物物理学(分子生物学)なんて分野では、正に神をも恐れぬ大変な事を言い始めております。
つまり生命現象と難も何ら物理学的法則から外れるものではない。人間と機械、自然の物体と人工の物体に本質的区別をつける事はできない・・・と。今学者が提起している様々な警告、例えば自然淘汰に掛ら無くなった人間の遺伝形質の退化、生命に手を加え得るようになった場合、それに付随する道徳的、倫理的問題、またこういう技術が犯罪に結びつく可能性など、これらの重要な警告が、そう先の問題では無いことは大変な脅威であります。
ところで考えて見れば、我々が正にこの大宇宙の全く偶然の所産であるという自然科学的な事実と、現に存在する社会や文化の網の目の中で生活しているということとはどう関わって行くのか。
 この宇宙が四次元であろうと、又宇宙に果てがあろうと無かろうと、そんな事は現実の生活に対して何ら意味を持たないけれども、こと人間に関する問題に対しては無防備ではいられないでしょう。
 テイラー著「人間に未来はあるか」とか、ジャック・モノー著「偶然と必然」なんかを読むと、所詮「人間らしさ」なんていう言葉が果して何時迄使えるだろうなんて不安になってきますね。
 魂とか感情の領域にまで自然科学が侵入して、機械的な演奏と心の籠った演奏という使い分けができなくなったらなんて。しかしあんまり追求していると人間なんてやっていられませんね。  
 

 

      冗句                             中沢美津江

 日頃からフルートの吹き方に研究を重ねていらっしゃる方に贈る。

トロンボーンの吹き方
 まず音怪(階)
  一番手前を第一ポジションという。
ここから七センチづつ手を伸ばすと・・・ポジションが余り、十センチづつにするとポジションが足りない。
はて・・・?
 次にチューニング
これは耳よりも目に限る。(他人に頼るのが最も正確という説もある)
普通は五センチ位抜くようだ。
最後に吸い口をつけ、思い切り吸う。(吸い口=マウスピース=歌口)

なおこの楽器、男女、楽歴は問いません。  以上

資料提供・・・JAZZ気違いでトロンボーン吹きでもある、私の主人。

今日は空が青かった。碧かった。(彼のブルース集より)

 

     「ド・サド・オケサの監督のもとにチャランポラン精神病院の患者か躁的状態にて書き上げた
      医者の基              患者番号四三○九四   亀沢広嗣

 

 学士試験、国家試験を目前に控えて、只今猛勉強中!ならいいのだけれど、意外と深夜まで酒を飲んでいたりして、翌朝、講義に間に合わない、なんてことをしています。だけど、今が本当に嫌な季節なのです。
 一応、僕にも未来の設計みたいなものはあるのですが、国家試験に通らないと、本当に「来年の事を言うと鬼が笑う」じゃないけれど、はっきりしないわけであります。何故国家試験なんて馬鹿なものがあるのでしょうね。最後の最後まで、試験に苦しめられて、医者とか歯医者なんて、楽な商売じゃないですね。
 永久試験でいいとか、金が「もうかりまんなァ」なんていわれてるけれど、結局、ここまでくると「つぶし」がきかないだけのことでしてね。医者なんて不器用で、大学の中でも結構、わがままが通用するもんだから、本当にのんきで、悪くいえば一寸足りなくて、こりゃ世間で他の商売なんぞやれるわけがない。医者でももうける位しか生きていけないわけです。
 それでも国家試験さえ通っちまうと、「先生、先生」なんていわれていい気になって、金はあるし、べんきょうしないもんだから暇はありあまっていて、ごらんなさい、三千四百万だかの、あってもなくてもいい馬鹿な車を乗りまわしてみたり、石油危機で灯も消えかかった銀座の夜の蝶におだてられて、鼻の下を長くしているのは
必ず医者か農協!
 僕にしたって、医者なんかには、本当はなりたくないけれど、僕ももうつぶしがきかないので、いやいやながら時々専門書を読んだりしているわけです。あー国家試験、嫌ですねェ。
 大学で、正直いって、こんなのが歯医者になるんだったら、俺は歯医者に金輪際いかないよなんてのがいくらでもいるもんでして。遊ぶのは、大いに結構なんだけど、僕はやはり、医者になる為には、とくに臨床医になる為には、結局、思いやりが大切なんだと思うんです。
 遊んでいても、やっていることをちゃんとけじめをつけていれば、僕は自然と医者の根本の事をわかってくるような気がします。例えば、良い音楽を聴いている時の、あのうるおいみたいなものが大事なんですね。
きっと今、やさしさとか、うるおいなんて特別な事でもない限り、世間は出しおしみして、なかなか分け与えてくれないみたいです。
 国家試験にフルート科目があれば、受かるかな!あーあ、試験嫌ですね!

 

      マルセル・モイーズに会いに行った日                石井孝治

 モイーズが講習会を開いた。僕は、とても感動した。会いたくてたまらなくなった。そこで、僕は、モイーズ弟子入り作戦をたてた。ホテル、滞在期間の調査、通訳の調達を開始。
その結果、東京プリンスホテル八三四号室に、十一月二十四日~二十五日まで滞在することが判明。通訳は姉の
友人A氏が引き受けた。いよいよ行動開始である。
 二十五日、朝九時、兄弟三人で品川駅に向かう。待ち合わせ十時。時間通り着く。ここでA氏と会う予定。
しかし、いくら待っても来ない。姉が走ってきた。「ここ大崎よ」すぐ品川に向かう。A氏に無事会えた。
A氏は、尺八を吹いていたので、すぐわかった。かれは、裸足にサンダルばき、よれよれのレインコートという
出立ち、ちょっと不安になる。四人でホテルに向かった。
 姉が、フロントで、モイーズの所在を確かめる。ところが、フロントは「そんな番号の部屋はありません。」
姉は、何度も問いただす。そこへ兄が来てささやいた。「もういいんだよ。ここ、高輪プリンスだよ。」
急遽タクシーで、東京プリンスへ向かう。東京プリンスへ着いたのだが、A氏が入れない。サンダルのせいだ。
彼は、急いで靴を買いに行った。その間、ぼくたちは、室の下見に行く。
 あった、あった。ずい分たって、A氏が戻ってきた。軽快に走って来た彼は、三本線の入った運動靴を履いていた。さあ会える。ちょっと興奮。姉が、フロントへ。「八三四号室の方は、朝早くおたちになりました。」
がくーん。私達は信じない。四人は、室にむかう。ああ、やっぱりいない。 
何ということだ。作戦は、みごとに失敗したのだ。
 A氏が僕の顔を見て言った。「弟さんの実力は、どのくらいですか?バッハを間違えないで吹ける程度?
はっきり言って、まだモイーズに会う程の実力はないと思うな。顔を見りゃわかる。苦労しとらんもん。」続けてこうも言った。「きょう、ぼくはモイーズと対決するつもりで来たんや。」彼は自己流の尺八をやるのである。
 そして苦労もしているらしい(顔からは想像できないのだが・・・。)そして尺八を吹き始めたA氏を見ながら、僕は思った。モイーズに会えないのは非常に残念だったが、もし会っていたら、もっと残念な結果になっていたのではないか・・・とすれば、今日は会えなくて良かったのかもしれないなあ。
そんなこととは知らないで、モイーズは今日も生きている。

 (これを読んだ人は言うだろう。「レソイカトンホ」と。なお、現在、オーレル・ニコレ会見作戦を計画中。
多忙につき、これにて失礼)

 

 

 

      無題                               山田和子

 何やらエキゾチックな感じの木の小箱を、先生が私の前に持って来られたので、ビスケットでもご馳走して下さるのかと思って、ニコニコしていたら、「笛吹きたち」の原稿ですって。
 何しろ、フルートなるものに、初めてさわってからやっと一年、まだまだ吹くところまでは行ってないので、
とてもおこがましくって・・・。
 去年の夏は、生来のあつがりやの上に、恥ずかしさやら何やらで、練習の度に大汗をかき、先生は震えながら
私の為に冷房をきつくして下さいましたが、今年は石油危機・節電の折でもあり、何とか、少しは先生に寒い思いをおさせしたくないと思っていますが、どうなります事やら。

 

      無題                               田宮治雄

 なぜ笛など吹いているのだろう
   唇に銀の冷たさを感じてからもう七年
   途中二度も投げだしたのに
    たいして上手でもないのに

 お祭り好きだからさ
 いつも目につくことばかり企てているじゃないか
  騒いだ後の余韻を一人で楽しんでいるじゃないか
   だから笛に引きつけられるのさ

 

 落ちつかないからさ
  一つのことにがむしゃらにしがみつくことはできず
   さりとて多くをこなす技量を持ち合わせていない
    その結果学校と音楽の間をウロウロしているのさ

 

 寂しいのさ
  何も頼れるものをもたないから
   心を乱し それを隠さねばならない時
   吹かずにはいられないのさ

 

 なぜ笛などをふいているのだろう
  唇に銀の冷たさを感じてからもう七年
   途中二度も投げだしたのに
    たいして上手でもないのに
 

 

       年令                          藤澤冨美子

 

 私の年令は二十才です。こういうとあんな顔をして二十才っていうことはないでしょうと言われるかもしれませんが、年令にも種類があり、一般に言われる暦年令のことではありません。
暦年令は○十○才、○の中に適当と思われる数を入れて下さい。
正解の方には賞品を差し上げようと思っています。ただし履歴書を見た方はだめですよ。
 さて二十才の年令、これは体力年令。今年二十五才位になったかもしれませんが、一昨年の体育の日に国立競技場で、壮年者の体力測定があると知って、面白半分に受けてみました。その結果が二十才だったのです。
 一番良かったのが強歩、悪かったのが握力でした。別に練習したわけではありませんが、忙しいのでせかせか歩き、混んでいる時は出来ませんが、駅の階段を二段づつ上がったり、下りたりしている結果のたまものらしいです。然し、この結果は何もつかまず疾走し人生の終点に達することを暗示されたようでいささか不安です。
 最後は精神年令、知能検査を受けたことがないので正確な事はわかりませんが、毎日、一才~六才の子供達と
遊んで喜んでいるし、それに只今三才の先生からしゃべることを学習しています。(あまり言葉の発達が遅いので)三才の先生はとても可愛く、面白く指導してくれますので、どうやら日常の生活に必要な言葉ぐらいで話せるようになりました。ですから一才よくて二才というところでしょう。
どうりで、考えがまとまらず、原稿締切に間に合わなかったのも不思議ではないですね。
これでも一才としては優秀な方なんだそうですからお許し下さい。
 もう少し勉強して十才位になれば、もう少しましなことが書けるんじゃぁないかと思いますが、悲しいことに
もうこれ以上伸びる可能性がないそうです。(三才の先生いわく)
でも、私の好きな春が来ましたから、何かいいことがあるかもしれません。それを期待して生きましょう。

 

       音色について                        上野昌彦

 

 一般に楽器を学ぶ数々の行程の中で、とり分け美しい音色を獲得する事は非常に困難であり、またやりがいのある仕事の一つだ。特にフルートについて言えば、その難しい理由の一つに、美しい音の基準が分からないという問題が出てくる。ある本では、名フルーティストの演奏を指針としなさいと述べているが、これも確かに方法の一つだ。僕が最初にフルートを持った時、指針となった音楽は、ジャズのフルーティストで、ローランドカークという奇妙な音を出す人で、それ以後半年ぐらいは、フルートは息の音の混じったボソッとした音がフルート音楽の最高の手段であることを信じていた。
 今までに、大体のいわゆる名フルーティストと呼ばれる人々の演奏をレコードなり、ステージで接したが、又、沢山の素晴らしい技術・表現にもめぐりあったが、僕の根本の指針が最初に聞いた音楽なのだから恐ろしいものだ。また、音色は、その人の人格、経験、音に対する誠実さというものがストレートに出てしまうので、生活態度というものまで影響をおよぼすものだ。僕の友人が、演奏家よりも、その音楽を創造する作曲家の方がより
高等ではないかと言った事があるが、それはおかしいと思う。なぜなら真の音色を演奏者が得れば、それはもうその人の音楽であるからである。フルートは一日一日音を造る楽器で、一定して自分の考えている音が出る訳ではない。その為にも日課練習の重要性を痛感する事が必要なのであるが、それと共に、優れた音と感じられる自分だけの音を得るように最善を傾けなければならないと思う。
 人間はある程度の期間練習を積めば、ある所までは行く事が出来る。しかし本当に優れた人は、どの世界でも、プラスαを持っているものであり、楽器においてはそれが音色の表現力、個性の優劣に関するものだと思う。
僕も早く自分の楽器を本当に歌わせる域にまで達したいとつくづく思う。
        アルバムについて                      下山孝子

 いつもは、現在もしくは未来のことに頭がいっぱいで、子供の頃のことは、すっかり忘れがちだが、時たま思い出してみるのも良いものだ。
 アルバムをめくっていると懐かしくて、心も和んでくる。赤ちゃんの時の写真を見ていると、どうしていまこのような顔になっているのか不思議になってくる。それと、両親その他がとても若く写っているのでおもしろい。
 三歳ぐらいからのは、何となく自分の性格のことなど覚えていて、今でもまだ残っているとか、今はだいぶ変わったなとか、どうしてああだったのかな、なんて考えが巡って行く。 特に小学生時代のは楽しい。幼友達の顔を、現在のと比べてみるのなんか、なかなか…。
 こんなふうに、アルバムを見ていると、とても心が晴れる。悲しい時とか、悩みがある時などに、アルバムのことを思い出すのは、そのためだと思う。不安定な気持ちの時に、それは過去の生活の歴史という確かなものを、与えてくれるから。またそれは、親との間の人生観の相違をのりこえて、深いつながりを感じさせてくれる。
両親への感謝の気持ちもわいてくる。こういった経験は、私にとって断続的なものであるけれども、とても大切だと思う。その他にも、アルバムはいろいろ考えさせてくれるので、いつも大事にしていたいと思う。

 

        ある時思ったこと                      竹部直子

 入社して以来、もう数年も過ごしてしまっている自分をハッとして見出した。毎日決まった生活のリズムの中で、時には恋をしたり失恋に終わったり又、泣いたり笑ったり、そして怒ったり、好きなことをやったり、そんな中で、今こんなことを感じた。
 「新鮮な感受性を、いつまでも持ち続けたい」白く浮かぶ雲にも、ただただ青い空にも、赤く大きな東をそめて昇る太陽にも。
日々の営みの中に心を打たれ、いつも鮮やかな印象を胸に、絵は描かなくとも、詩は作らなくとも、心は詩人でありたい。私達の住む所、四季があり、何度も何度も春が来て、夏が来て、秋になって、又、冬が来る。
早春には、もの皆芽をふいて、柳の芽の愛らしさよと目を輝かせ、春は花が咲き乱れその見事さにおどろき、夏には緑の葉をしげらせる大木の下に涼み、秋はさびしい。秋は葉も枯れる、すすきの原を歩いてみたい。
 そして野分して風の音におどろき、冬は雪、冷たい月に心をうばわれ折々に新しい感動をよびおこす新鮮な心を持ちたい。人の世の出来事にも、喜びそして泣いても感受性のあるところ新しい意欲が湧いて、時には危ない橋を渡る勇気を若者が持つように、私もいつまでも若者の心を心としたい。
 

 

        我がフルートの履歴書                    石原利矩

 「どうしてフルートなんか吹く様になったのですか」と良く人にたずねられる。
 そんな時は「フルートは、女性も吹くでしょう。だから可愛い女の子を、教える事が出来ると思ったから」と言う事にしている。しかし真実のところ、当時(中学三年生の厚顔の美少年の頃)学校の数学の先生に
「おいっ 石原。フルートをやってみんか」と言われたのが、そもそのもあやまちの発端となるのであります。
 数学者か科学者を夢見ていた僕に、フルートとはどんなものであるか分からず、きょとんとしていると「西洋の横笛であるぞ」実は、私も見た事はないが、今日ラジオでやっておった。実にきれいな音である。どうだ、一つやってみんか」と無責任な注文をする。特別音楽に関心をもっていた訳ではないが、普段尊敬している先生の言う事だ。きっとすてきな物に違いないないってんで、フルートとはどんなものか調べてみる事にした。
楽器店に行ってみると、ショーウィンドの中に一本だけ置いてあった。親に相談したら「学校の成績が一番になったら買ってやる」と言われ、その楽器は、フルートをまぶたに浮かべながら、一生懸命勉強した。その甲斐あって、ついに成績が一番になったのである…と書きたいのだけれど、真実は曲げられない。
一番にはならなかったけれど、その努力ぶりに両親も可哀想に思ったか、念願のフルートを買い与えてしまったのである。その時、親がもう少しきびしく、約束どうり買ってくれなかったならば、今頃ノーベル賞に輝く学者
にでもなっていただろうが、人の運命は分からないものである。ホント。
 さて、それからが大変な事だった。今や小学生でもフルートを吹く子が多く、ポピュラーになっているけれど、
当時は、フルートとはなんぞや、という人の方が多い時代であったし、ましてや周りに吹く人なんか見当たらず、運指表を見ながら、手さぐりで吹いていても限界がある。人づてに、やっとさがしあてたのが、静岡市の市役所に勤務していた田口さんと言う人で、この方が我がフルートの最初の師であった。
今から考えると、その時の楽器は、ムラマツの初期のもので低音のC、Cisのキーが無く、最低音がEsであった。今持っていたら、博物館から引き合いに来ていただろうけど、新しい楽器に変えた時、近所のワンパク小僧にやってしまった。二代目のフルートは、やはりムラマツの洋銀製で、僕の妹が持っている。後世に名を残す様な笛吹きになったら、博物館に寄贈するそうである。
 さて、その頃は、熱中すると、とことんまでやりぬく性癖があった様で、勉強なんかほっぽってフルートばかり吹いていた様である。数学の時間には、楽典を広げて読んでいても、おこられもせず、まぁその先生にも変なものをすすめてしまった後ろめたさみたいなものがあったらしく、いつだったか、数学の時間に「どうだ、皆にフルート聞かせてやれ」なんていわれ、調子に乗って、おだてられたり、その先生は罪滅ぼしのつもりか、僕のリサイタルには、今でも聞きに来て下さる。
  井の中の蛙、大海を知らず。
その蛙を、東京まで引っ張って来て下さったのが、その中学の校長先生。その先生の知人の知人のその又知人が、先日亡くなられた林リリ子先生。よせば良いのに、その時は、フルートに取り憑かれ、もう我が人生はフルートしかないと思い込んでしまった。専門家に聞いてもらい、やめなさいと言われれば、あきらめもつくとの計らいであった。あろう事か、そこで又おだてられ、「頑張ればなんとかなる」の一言で、又々ノーベル賞のチャンスを逃がしてしまったのである。
 それから、高校へ入学した四月から、丸三年間、毎週清水と東京を往復する生活が続いた。リリ子門下には、モンブランで亡くなった加藤恕彦氏、峰岸壮一氏、野口竜氏、小出信也氏、江藤辛衛氏等、現在一線で活躍している面々が、兄弟子としてひかえていた。ひかえていたというよりも、リリ子女王様の足もとにひれふしていたと言う方が当たっているかもしれない。それはそれは、こわい女王様。今もって、女性のヒステリーにアレルギーをおこすのは、この三年間の修業時代につちかわれたものだと思う。しかし、良く弟子のめんどうを見る人だった。林先生の思い出は沢山ある。ありのまま書くと、悪口を言っている様に思えるかも知れないが、こう言う教え方もあるものだと言う意味で読んでもらいたい。
 四時間近く汽車に乗り、先生の家に行くと、今日はメガネが見つからないから、来週いらっしゃいとか、その時間に待っていると、女中さんが出て来て、今先生マージャン中だからと何時間も待たされ、あげく今日は、レッスン取りやめですなんて言われたり、そうそうその時、可哀想と思ったか、間口で呼びとめ、カフスボタンを下さった。先日お通夜に行った時、それをはめて行きましたョ。理由が分からずおこられ泣き泣き帰った事も、もうフルートなんかやめちゃおうと思った事も、何度となくあったけど、今思うと、それも懐かしい思い出になるなんて人間、便利に出来てるんだなー。
 最初にオーケストラで吹いたのも林先生のはからいで、ある日、日本フィルハーモニーの練習所につれていかれ、先生のとなりに座らされ、吹けるところを一緒に吹きなさいと言われ、一生懸命、指揮者の手を見ているのだけれど、最初から最後まで、どこがどうなっているのか、さっぱり分からずひと吹きもしないで終わってしまった。その後プロになってから自信がなくなった事は何回もあったが、これが最初のオーケストラで味わった最初の屈辱的な経験である。その時の曲は、ドビュッシーの夜想曲、指揮者は渡辺暁雄氏だった。
良きにつけ悪しきにつけ、多くの事を教わったけれど色々の事情から、ついに林門下を飛び出してしまった。
この時は、アメリカ・セルマーを吹いていた。この三代目の楽器は、現在、貸出しフルートにしているから、吹いた方もいると思う。
それから小泉剛先生にひろわれる。二年間浪人生活を送る。国立音楽大学に入学、高橋安治先生に師事。
 何やらリサイタルの履歴書になって来たけれど、そこで四年間勉学にいそしんだかはさておき、卒業近くなって、四代目ルダル・カルテを買い、これは現在手元に持っている。どういう運命のいたずらか、卒業した年に
N響の入団試験を受けたらパスして現在に至る。
 N響に入って二年目にウィーンに行く。この時代の事は、次号にゆずる事にして、一年半、ワインを飲んでワルツを聞いて帰国。
 それからヤマハ時代、六本木時代を経て、ここ、この外苑前のレッスン所で皆様とお目にかかるという次第で 
・・・ああシンド。やっと近況にたどりついた。何が人の運命を変えるか分からないと言うおそまつの一席。

 

        おさらい会の或るたのしみ                   南谷周三郎

 極端に言えば、私に無関係な人たちのおさらい会だったら、五時間も六時間も聞いて居られるものではありません。石原先生門下のおさらい会を始めから終わりまで聞いているのは、私にとって、そこに或るたのしみがあるからです。私自身の下手な演奏を皆さんに披露することでは、絶対にありません。たのしみとは、皆さんの演奏を聞き乍ら、空想の世界をさまようことです。
 「あの人は、ずい分うまくなったな。音も良い。練習もずい分やったろうな。だけどあの位になるには、学校の勉強はほっぽり出しなんだろうな。」
 「あの人は去年とあまり変わらないな。俺と同じだ。勉強や、仕事が忙しかったにちがいない。そんな顔をしている。」
 「あれは、去年のあの娘かな。見ちがえたね。ずいぶんきれいになったもんだ。この前までは、子供子供していたのに。フルートはまあまあだ。」
 「あの人のフルートは、続けることに意味があるんだな。」
 「あっ、まちがえた。やりなおし。落ち着いているな。この頃の娘は昔とちがうな。」
 「あれは、いい音だ。表情も豊かだ。たしか音大を受ける子だっけ。あれは合格だ。だけど、もっともっと勉強しないとランパルやニコレのようにはなれないぞ。人生きびしいからな。」
 ・・・・・・・・
 このような空想は、フルートが絶対にうまくならない人にして、はじめて味わうことができる楽しみです。

 

        或る日見たもの                        荒井忠一

 バスにゆられて暫くは、道の左右全くの平坦で延々と畠と雑木林が続いている。これが国立公園の一角かと
不信に思った。が、終点に近づくと、突如深い谷がバスの右下に見えてハッとした。そして谷の向こうには、山又山、遠く近く重なり合って、急傾斜の山はだは、ジャングルの様な木の茂みに覆われ、全容が或る種の感激をたたえて目の前に迫って来る。
 その山並みの谷あいが、ひなびた温泉町だった。木造の古い宿が四、五軒密集している外、店らしいものもなく、道に人も見えない。
 次の日、早速外に出た。美しい河の流れ、水の音さえ澄んで、川底の小石の色もあざやかだ。いい気分だ。
仕事も忘れて、身も軽いので、あちこち歩き回って数時間を過ごした。
そのあと、町の様子を見ようと吊り橋を渡った。そして見てしまったのだ。宿から老夫人、上の行困難で、付添いの主人も又、不確かな足取りや、若く体格の良い人も母と夫人に両の手を支えられて、一歩一歩足をひきずる様にしてゆく。後ろから来る人も、又その後の人も。私は気の毒で顔をそむけた。ここは、昔から名のある湯治場だとかだが、こんなにも病人があるものか。悲惨だ。
こんな状態が昔から新しい世代へとそのまま引き継がれて来たのであろう。健康な人の知る由もない社会の片隅の一コマに過ぎないが、本人達は必死だ。
医術に頼れる病気ではない。その落ち込んだ、そこから抜け出したい、健康を取り戻したい神だのみに似て必ず治癒する確信がないのだから一層哀れだ。
 目を転ずれば、木々の緑は美しい。山もきれいだ。だが、私は病人達の一日も早い回復を念じつつ、重い気持ちでそこを去った。

 

        一月二十九日 午前一時半                     野本 実

 最近感じたり考えたりした事を、とりとめもなく書き連ねて行こうと思います。紙不足の折、今年の「笛吹きたち」も長くなるかもしれませんが、あしからず。
 音楽というのは、まさしく芸術です。(書き出し、読者が嫌悪感をもよおす程、格調高くせまるのダ!)
しかしこの音楽という芸術の発現形態を考えると、ちょっとおもしろいと思う。作曲家がいて一つの曲を作り、
演奏家がいて…。絵画や彫刻などの美術にしても、文学にしても、作者がいるだけで、あとはそれを鑑賞する人間だけ。音楽における「初現形態の二段階制」みたいなものは、演劇の世界にも見られる。台本というか、とにかく筋書きを書く人間がいて、それを実際演ずる人がいて、またその間には演出家とか言う人間がいて、重要な
位置をしめたり…。そうした役割が、直接演ずる側の者にゆだねられる場合も多いと思うが、演劇における演出家は、音楽では、何にあたるのだろう。ちょいと無理があるかもしれないが、指揮者に相当すると考えられないだろうか。
 歌曲とか、オペラとかになると、かなり複雑になってくる。逆に即興演奏とか、自作自演となると単純化される。もっとも文学の世界でも、小説がいつのまにかドラマになったり、映画になったりする。しかし、音楽や演劇などの根底には「初現形態の二段階性といったようなものがあって、どうしても許容性ないしは、自由度のようなものが、つきまとうと思うわけであります。

 どうも、かなり疲れてしまったのであります。少し話の方向を変えてみようと思います。
音楽でも美術でも、とにかく芸術である限り本質的に鑑賞者の感動は、当事者(作者なり演奏者なり)の感動の上に成り立っていると考えます。うけうりですが、感動を知らない人間が、人を感動させる事は出来ないと言う事なのです。感動に支えられたある一つの行為が、人と云う存在を考えに入れようと入れまいと、別段かまわないわけです。そしてプロとかアマチュアとかいう問題とも関係ない大前提なのだと思います。
ただ言える事は、プロの演奏家の場合、一つの曲目を何度演奏しても感動を持って(多少その質が変化しても)演奏でき、アマチュアは、それが種々の理由で出来ないし、出来にくいものではないかという事です。 

 ちょっと陳腐ですが、僕がフルートを吹いていて、一番嬉しく感じるときは、何かにハッとする時です。
一人で吹いているときにもありましたが、合奏している時の方が多いような気がします。相手の感動のほとばしりにハッとして自分もまた「わるのり」する。そんな時が、楽器をやっていて良かったと思う時です。別にゴマをするわけではないけれど、僕の記憶に鮮明に残っているのは、以前レッスンで、石原先生がピアノを弾いてフォーレのファンタジーを吹いたときと、プーランクのソナタの二楽章を吹いたとき。

 でも最近そうした感動は、あまり経験していません。いつも自分の中になにかしらけた気分があります。当然のごとく、練習もしなくなって全くの悪循環です。
 先日、千葉大オケの定期演奏会がありました。ブラームスの第三交響曲とチェロとバイオリンの為の二重奏曲というプログラムです。この演奏会は、いろいろないきさつがあって、団員の中にも、指揮者と千葉大オケ側にも様々なことがあって、僕としては、結局「のらない」演奏会でした。演奏会が終わって、下宿でいくらウィスキーを流し込んでも頭はなんとなくさえきっています。
なにか「ロボットになりきれなかったロボット人間」といったような言うに言われぬ、後味の悪い気分でした。
演奏という行為には、ある面でロボット性が要求されるのは、事実であるが、そのロボット性も、人間性も満たされなかった時のむなしさは、全くひどいものです。
 用意された計算された感動は、人を感激させることはあっても、感動ではなく無意味だ。そして合奏において、相互に不信があっては、演奏はしない方がいい、と言うよりしたくない。

 

        幻の優勝旗                             根岸咲子

 ブラスバンドが結成されて二年目、私はクラリネットを吹いていた。女子校では初めてとかで一同張り切っていた。当時は今の様に遊ぶ場が無かった事もあり、放課後のレッスンが何よりの楽しみで、週二回の練習日は勿論、日曜日まで登校して吹いていたものだ。小太鼓だけは、小使さんに「今日くらいは休んでくれ」と言われながらも…。其の努力が実って中学校吹奏楽コンクールの日が来た。空は青く澄み日比谷の野外音楽堂に各校の部員が続々と集まって来る。午前の自由曲は無難に終わった。男子校と比べておとらない出来だったらしい。
課題曲にと進む。曲目は忘れたが、行進曲だ。私達は終りに近い順番だったと思う。気持ちよく吹き終わって先生の顔を見ると「やった!」という様な満足気な表情をなさった。そして席に戻ると「優勝だな。すごく良かったよ。」とおっしゃった。部長は優勝旗を受ける練習をおどけてしたりしている。ところが、審査員の動きが、にわかに忙しくなりその中の一人が先生の所に来て何か話している。一瞬先生の顔が青ざめた。
先生は楽譜をジーっと見つめてうなづいた。話し合いがついて次の学校の演奏が始まったが、私達は不安でもう耳に入らない。終わった時、先生が「gesの♭を一か所書き落としていた。」とポツリと言われた。そして優勝旗は他校に持って行かれた。
校長先生のポケットマネーにより揃えられた最少限の楽器で唯、豊富な練習量により、自信に満ちた演奏だったのに。だが、成績は抜群だったからと、コンクール始まって初のケースで特別賞が頂けた。今なら簡単に出来るコピーも、昔は三十枚近く先生が書いて下さったのだから間違いがあってもしかたがない。
私達はその時は泣いたが、涙を流した後は爽やかだった。やるだけやったのだもの…返って満足感が残った。
次の年より戦争が激しくなり、コンクールも取りやめになった。そして学校に飾られた特別賞の賞状も三月十日の空襲で焼けてしまった。けれど私の頭の中には、何時までも忘れられない懐かしい思い出として刻みこまれている。

 

        京都にて                              吉川しな子

 三千院から少し離れた所に、宝泉院というお寺がある。入ってゆくと竹の庭が目の前に広がり、竹の間を通して小野のかすみが見渡せるようになっている。その日はとても暖かくて、ささの音がとても心地良く聞こえて来て、友としばしうっとり。修学旅行では、とても味わうことの出来なかった静かな京都である。
やはり京都はのんびり、じっくり見て回るものだと思う。次から次へと行動を移してゆくのでは、せっかくの良さが分からないと思う。
 どのくらいうっとりしていたのか、知らないおじさんが私達の姿をみて、竹の見方を教えてくれた。私達はこれから春をむかえるのだが、竹にとっては秋なのだそうです。そして竹にとって本当に美しい時というのは春で、
私達が秋をむかえる時なのだそうです。やがて来る四月まで、竹は子供を生むため、栄養はすべて竹の子に取られ、ささは肩を下げるし、つやはなくなるし、色も本当の色ではないとか。
秋が来ると、ささは元気よく肩をはり、竹はつやのよい真っ青な色になり、風にそよぐ音は、何とも言えないものだとか。
 それから、ここのお寺は天井が「血塗りの天井」と言われ、昔関ヶ原の戦いで敗れた人々が自害し合った時の床板を、宝泉院の天井に使ったのだそうです。もちろん、その人々の霊をなぐさめるために。
天井を見ると、足跡やかぶと、刀のさや、それから顔の形が、血で形作られて残っているのです。
そんな昔の出来事を突然目の前にした時の気持ちは、異様なものです。
 毎日の生活から離れ、いろいろな事を思い、自分をこんなにのんびり見つめる事ができるのは、やはりここが京都だからかしら…なんて思う京都に来て気がついた事、日本式の庭園というのは、見る人のためばかりに作られている。本当に思いやりがあると思う。一つ一つそれこそ小さな事にまで心遣いが感じられる。以前はあまりにも作り過ぎなようで嫌だったが、今はそう思わないのは、その庭に思いやりを感じられたからだと思う。
 ここでは、熱くて美味しい抹茶を出してくれるのですが、昔の人はこんな風に、ささの音を聞き、池の水の音を耳にしながら、お茶を飲んだのだろう。日本人て優雅なんだなぁーと思う。
私も心だけは、いつでも優雅でありたいとつくづく思う。それは本当の意味のやさしさに通じることだから。

 

        フルートを始めてから ~徳植氏、おおいに語る~          徳植俊之

 ぼくが、石原先生の所でフルートを習うようになってから、約一年とちょっとになった。
始めて石原先生の所へ行った時のことを、ぼくはまだよく覚えている。(あたりまえだ。一年やちょっとで忘れてたら大変だ。)ぼくは、石原先生という人が、もっと年を取っている(簡単に言えば、おじいさん)かと思ったら、意外と若く?て安心した。そして吹き方を教わり、ついに音が出た時、もう、たとえようがない(ここで、僕の教養疑われる)ほど嬉しかった。だけど、ぼくは笑いじょうごで、とくにかんちょう…じゃない緊張すると、よけい笑いたくなる悪いくせがあり、その日もそれが出たのである。
とにかく、こんなところでいきなり笑ったらバカだと思われると思い、いっしょうけんめいこらえた。あの時くらい苦しかった時はなかった。
 そんな事があってから一年、いろいろな事があった。でもその中でも大きな事といえば、音楽が前より好きになったことだろう。特にバッハが好きになった。おお、わがいとしのバッハよ。
(ところでバッハって男性or女性?)
 音楽会もだいぶ行った。それで気づいたのだが、音楽会のポスター(パンフレット)の顔と、実際の顔とはずいぶん違う。例えば、パドラ=スコダはパンフレットでは、髪の毛はちゃんとたくさんついている(おまけみたい)のに、デムスとの演奏会の時、本人の顔を見たら、なんとけっこうハゲているし、もっと年がいっている。
 それから、ローランド=コバーチュもポスターは若く、けっこういい男に写っているのに、実際に見ると、もっと年はとっているし、髪型も多少違うし、上の方がハゲているから、ありゃカッパだ。
 だいぶハゲにこだわるようだが、たしかに、演奏家の中にはハゲている人がけっこうたくさんいる。(石原先生!あまり頭をくしでとかすと、みんな抜けちゃうかも。注意一秒、ハゲ一生!)なぜかな、と考えるけどわからない。(こんなこと深刻に考えるべき問題ではない。)もっとも石原先生の場合、今のところは毛は着いている(フサフサと)から安心ですね。(かつらでないことを祈っています。)
 これ以上書くと、徳植氏、青山の外苑ビルに行ったきり帰りません。てな事になって、マスコミが騒ぎ、全国に散在しているファンが悲しむから、これくらいにしておこうっと。


第3号終わり


 打ち込み協力:三木 恭子 2013年7月


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