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閑話休題

閑話休題 その2



フルートの詩人「アンデルセン」  石原利矩


 アンデルセンのエチュードはフルートを吹く者にとって知らない人が無いくらい有名です。彼の作品15のエチュードはその音楽性の高さから不減の名作になっています。このようにエチュードはあまねくフルーティストに知られていますが(皆さんご存知ですか?)、その他の作品はあまり演奏されないのが現状です。その理由の一つには絶版になっている作品が多いことが挙げられます。また作品が殆どフルートの曲ばかりであると言うこともその理由と言えるでしょう。何故なら一つの楽器のためだけに作曲することは作曲家が有名になるためには不利なことなのです。有名でないと世の中で取りあげられないのが通例です。未だにアメリカの作曲家、ルロイ・アンダーソンと取り違えている人が沢山いるくらいですから。


「後ろ姿のカリカチュア」  
 表紙の後ろ姿の人物のイラストを見て変な絵だなと思われた方がいらっしゃるでしょう。それはデンマークで当時の新聞に掲載されたアンデルセンのカリカチュアです。シルクハットをかぶった頭部からマントを通して犬の背中にかけて一本の白い線が描かれています。デンマークではそれまでオーケストラの指揮者は聴衆の方に顔を向けて指揮をしていたのですがアンデルセンが背中を向けて指揮をした初めての人だそうです。しゃれっけなのか冗談なのか分かりませんが後ろ髪を丁寧に中分けにした写真が残っています。新聞に載ったところを見るとそれで聴衆の前に出たのでしょう。

 

写真1. うしろ姿のアンデルセン頭髪に注目:音楽史博物館提供

「フルートのショパン」  
 アンデルセンが「フルートのショパン」と言われているのをご存知でしょうか。例えばクーラウは「フルートのべ一トーヴェン」と呼ばれています。これは誰が言い出したのでしようか。1904年アンデルセンはパリを訪れました。この時モイーズはアンデルセンに逢っています。パリ・コンセルヴァトワールでタファネルに師事している時でした。タファネルはアンデルセンの前で彼のエチュード、作品15の3番G-Durを演奏しました(もしかしたら弟子の一人かも知れません)。それを聞いたアンデルセンは「自分がこんな素晴らしい曲を作曲したなんて思ってもみなかった」と言ったそうです。そしてタファネルの後継者エネバンは「ピアニストにはショパンのエチュードという素晴らしいものがあるが、フルーティストにはアンデルセンのエチュードが有る」と言ってアンデルセンのエチュードを高く評価していたそうです。そんなところから「フルートのショパン」という謂れが出たのでしょう。アンデルセンが「フルートの詩人」とも言われていることをご存知でしょうか。ご存知ない?それは当然です。そんなことを言っているのは他ならぬ私ですから。音楽史の混乱を防ぐ意味でここで明らかにしておきます。

「ガントルプの遣稿」  
 アンデルセンのことを調べて出版をしようとした人がデンマークにいました。ヴィクター・ガントルプというヴァイオリニストです。この人も「フルートのショパン」の謂れを調べたようなのですが最終的に結論が出なかったようです。残念ながらガントルプは本を著す前に亡くなってしまいました。その遺稿が未整理のままデンマーク音楽史博物館に所蔵されています。1995年、私はそれを閲覧しましたがデンマーク語の語学力不足と時問の関係で全部目を通すことが出来ませんでした。早く本にまとめてくれる人が現れないがと願っています。

生涯
「幼少時代」  
 それではカ一ル・ヨアヒム・アンデルセンの生涯をガントルプの記述を交え述べてみましょう。1847年4月29日(昭和天皇と同じ月日なので覚えやすいかな?)デンマークのコペンハーゲン(ガルン)で生まれました。オーボエ奏者の父親から弟のヴィゴと一緒にフルートの手ほどきを受けました。父親には何故か「小アンデルセン」と言うニックネームがついています。いたずら坊主のカールとヴィゴはしつけに厳しい母親のもとで幼少時代を過ごしました。母親は鞭を持って二人を学校に連れて行ったそうです。兄弟にはもう一人ヒルマと言う姉がいるのですがこの人はアルトの美しい声の持ち主で音楽の素養があり成人して打楽器奏者と結婚し、弟のヴィゴと同様後にアメリカに渡っています。カールとヴィゴはかなりピアノが弾けたそうです。カールは13才にして公開の場でフルートを演奏しています。いくつかのオーケストラで活躍した後デンマーク王立楽団の第一フルート奏者となりました(1869~1877年)。

「最初の結婚」  
 最初の結婚は王立楽団に所属した年です。この結婚についてガントルプの資料の中に芳しからぬことが書かれています。相手の女性はエマ・クリスティーネ・ヤンソンと言ってスエーデン王の愛妾だった人で、カ一ルがスエーデンに演奏旅行に行った時に2万クローネで買ったのだというものと、2万クローネとこの女性をスエーデン王から賜ったと言う矛盾したものです。王立楽団を辞める頃の勤務状況はかなりずぼらだったようで勝手に弟をエキストラに入れたりして他の楽団員はカ一ルが来るのかヴィゴが来るのか分からなかったと言うこともあったそうです。

 

写真2. 若き日のアンデルセン(年代不詳):音楽史博物館提供

「旅立ち」  
 8年問王立楽団に勤務した後、世界に向けてカールはデンマークを後にします。この時離婚したのかどうかは分かりません。スカンジナヴィア諸国における演奏旅行で成功を博し、後ペテルスブルクの宮廷楽団に所属し(1878-1880)、その後ベルリンに移り一時ビルゼの率いるオーケストラの第一フルート奏者として契約をし、後にベルリン・フィルハーモニーの創立時(1882年)のフルーティストの一人として名前を連ねています。当時のベルリン・フィルのプログラムには彼の名前が時々ソリストとして見ることが出来ます。

「アンデルセンの弟子」  
 アンデルセンを理解する上で作曲家・フルーティスト・指揮者の三つの面から考えなければなりませんが、教育者としての業績も有ります。彼のエチュードを見れば教育的配慮が伺えます。ベルリン時代のアンデルセンの弟子にはエミール・プリル、アリ・ヴァン・レウエン等が挙げられます。

「ダブル・タンギングについての怪」  
 レオナルド・デ・ロレンツォの記述に次のようなものがあります。「アンデルセンはべ一ム・フルートに頑として反対したのと同じ程度にダブルタンギングに反対していて、フルートの真のスタッカートはシングルタンギングであるべきだと言った。そんな訳で彼の同時代の人々が新しいフルートの可能性を論じたり証明したりしている間に、彼はシングルタンギングで出来るという自分の理論を証明するため、シングルタンギングのスタッカートを練習しすぎた結果、舌を痛め晩年には全くフルートが吹けなくなってしまった。」しかし、不思議なことは彼が嫌っていたダブルタンギングが、その彼のエチュードの中にあることです(Op.15-9b)。

「指揮者としての活躍」  
 ロレンツォが言うようにこのダブルタンギングの練習が舌を痛めた直接的の原因であったかは不明ですが、1891年にはフルートを吹くことをやめています。フルートが怪しくなってきたから指揮者になることを考えたのがどうかは詳らかではありませんが、彼はベルリン・フィル時代に指揮者としての道を開こうとしていたことは事実です。副指揮者のオーディションで競争相手に負けてしまいますが、それでもいくつかの演奏会では指揮者を任せられています。特に夏のシーズンの避暑地・オランダのスケベニンゲン(変な地名ですね)でのコンサートでは指揮者として登場しています。

 

写真3. ベルリンフィル時代(1889年4月):音楽史博物館提供

「二度目の結婚」  
 1891年、アンデルセンは二度目の結婚をしています。アメリカ女性のサラ・ダナ・ワトソンです。この女性はアメリカからベルリンにピアノの勉強で来た人です。彼女に作品24の「6曲のサロン風作品」を献呈しています。Missを付けているところを見ると結婚前のことでしょう。結婚後アンデルセンと生活をずっと共にし、後のデンマークでアンデルセンの死に水を取り、一人になってからしばらくしてアメリカに帰っています。アンデルセンの資料が現在リンカーン・センターに残っているのもそのせいです。

「故郷に帰る」  
 ベルリンでの指揮者の前途をかんがみてアンデルセンはデンマークに帰ることを決意します。1893年のことです。オド・フェロー宮におけるいくつかのオーケストラの演奏会、リューベックにおける博覧会での演奏会(1895)、1898年以後チボリ・オーケストラの指揮者、1899年以後ローセンボー宮殿における演奏会の指揮者、また1896年には自身でオーケストラの学校を設立しています。チボリ・オーケストラの指揮者としては、若いころの自分を棚に上げ、楽団員にオーケストラの規律をかなり厳しく押しつけたようです。規律と言うよりもしつけかも知れません。今日のオーケストラでは当り前のことをしたまでですが、当時は練習中自分の出番がなければ席を外したり、タバコを吸ったり、新聞を読んだりと言うようにお行儀が悪かったのです。

「養子」  
 ガントルプの資料は帰郷してからの事柄が多いのです。アンデルセンには子供がいなかったので養子をもらいました。フリッゲ(Frikke)という名前の男の子です。目が不白由で、フルーティストの教育をしましたが大成せず若くして死んでしまいました。 「作品番号と作曲年代」  アンデルセンはベルリンで火事に見舞われました。自筆譜はかなりの部分失われてしまいました。奇しくもクーラウと同様な目に遭ったことは後のアンデルセン研究のためには残念なことです。ガントルプの資料にはベルリン時代のことが少ないのはそのせいかも知れません。最近出版された楽譜の解説にアンデルセンの作曲年代について怪しい考証があります。それは「彼の殆どの作品は1879年以前に書かれたものであろう」という記述です。1879年と言えばペテルスブルク時代以前を指します。しかし作品24は二度目の結婚相手Missサラ・ダナ・ワトソンに献呈されています。作品35はベルリン時代の避暑地・スケベニンゲンの総監督に献呈されています。ベルリン・フィルがスケベニンゲンで演奏会を始めた年は1885年のことです。ペテルスブルク以前にこの二人に出会ったとはとても考えられません。作品55は、1894年に出版されました。ですから作品54あたりがベルリン時代とコペンハーゲン時代を分けているように考えられます。作品54までは殆どの作品はハンブルクのライヒセンリング社から出版されていましたが作品55以後はツィンマーマンやコペンハーゲンのハンセンなど他の出版社になっています。アンデルセンの作品がいつ頃書かれたのかをはっきりさせるのは今後の課題です。

「作風」  
 アンデルセンは音楽史の中では後期ロマン派に属します。ベルリン・フィルで活躍していた頃、いろいろな作曲家と接しています。ブラームス、サン・サーンス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、グリーク、リヒアルト・シュトラウス、等が挙げられます。初期の作品は様式の上で多様性があります。作品2の「ハンガリア・ファンタジー」、作品3の「コンツェルトシュトウック1番」、作品5の「バラードと空気の精の踊り」などは比較的大曲の部類に属します。作品7の「アンプロンプチュ」はドイツ後期ロマン派風で深い味わいのあるものです。その後の作品は小品に属する小曲の連作です。歌あり、ユーモアあり、北欧の暗さあり、詩情あり、このあたりがアンデルセンの真骨頂です。

 

写真4. 最晩年のアンデルセン:デンマーク王立図書館提供

「晩年と死」  
 アンデルセンがコペンハーゲンで果たした業績の内には、デンマークの聴衆にドイツ・ロマン派の作品を紹介したことが挙げられます。1896年にはプライベートにオーケストラの学校を開設しました。その後この学校はコンセルヴァトワールの建物に練習場所を移しました。死の直前にプロフェッサーの称号が与えられました。プロフェッサーと言っても彼は音楽学校でフルートを教えたわけではありません。或る専門分野で秀れた業績を残した人に与えられる称号です。アンデルセンは1908~9年のシーズンの最後の演奏会の終了後オーケストラのメンバーを集め仕事をやめると伝えました。そして椅子に座り激しく涙したということです。その直後コペンハーゲンから2マイル位離れたハレスコウの療養所に入院し、そこで死を迎えます。1909年5月7日のことです。ディトレウセン医師の死亡証明書には死因は脳出血(脳浴血)と書かれています。サラはアンデルセンの遺骨を大西洋に撒きたいと考えたのですがそれもかなわずビスペベア墓地の納骨堂に遺骨を預けました。そして死後間もなくアメリカに帰ったのですが、1912年以後の彼女の消息は誰にも知られていません。奇異なことにアンデルセンの骨壷が一時設置場所から紛失してまたもとの位置に戻っています。その後、1943年に共同墓地に埋葬されました。デンマークにはアンデルセンの個人の墓石はありません。